記事:蒋介石日記公開

 

【パロアルト(米カリフォルニア州)=野嶋剛】米スタンフォード大学が保管する「蒋介石日記」の1946〜55年分がこのほど公開され、中国共産党との内戦で敗れた国民党の台湾への撤退について、当時の蒋介石中華民国総統が実際の撤退時期より1年以上前の48年11月に決意を固めた様子が明らかになった。蒋介石は「現状を捨て、再起を図る」と語り、台湾拠点化の準備を始めていた。

 国民党政権は東北地区や北京を次々に共産党に奪われ、首都・南京を放棄して広州、重慶と敗走を続け、49年12月、ついに大陸から台湾に撤退したが、その決定過程には未解明部分が多かった。

 要衝の瀋陽が陥落した直後の48年11月2日。蒋介石は日記で「政治、経済、軍事、社会みな甚だしく動揺。(中略)三十年来、ない状況だ」と嘆く。7日には「終日苦痛と落ち込み、恥辱の中で、最後の闘争の空間と時間を考慮」と追い詰められた心理状態をつづった。

 そして同月24日、長男の蒋経国(後の台湾総統)を呼び、「現状を捨て去り、別途単純な環境を選び、範囲を狭め、根本的改革で再起を図る。今の戦局の勝敗は気にしない」(同日の日記)と告げ、撤退を示唆した。

 撤退先は明言していないが、この時期から陸軍大学や陸軍精鋭部隊の台湾移転を決める記述が相次ぐ。12月に入り、蒋経国を国民党台湾支部トップに起用し、台湾省主席も交代させる方針だと日記に書いた。

 12月27日と29日には中央銀行総裁と面会し、「基金分散を指示」。総裁との面会はその後も数日おきに続き、「外貨と現貨の処理」を指示した。現貨は金塊を指し、大量の資金を台湾や対岸の福建省アモイに移していた。

 蒋介石は49年1月21日に総統を退き、翌22日の日記には側近と「今後の台湾の軍・政・経済と反攻方針を話し合った」と書いている。
朝日新聞』2008年7月31日、日刊

台北=石井利尚】現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)の日記のうち46〜55年までの原本が、保管先の米スタンフォード大で公開された。
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 21日付の「中国時報」紙が同大学発で報じた。国民党軍が47年に台湾住民を武力弾圧し、2万人とされる犠牲者が出た2・28事件について、毛沢東共産党軍との内戦に追われていた蒋介石が、住民の抗議行動を「暴動」と認識、鎮圧を急いだことが明らかになった。

 報道によると、軍が台湾に上陸した直前の3月7日、蒋介石は「台湾で暴動が起き、役人や外省人(大陸出身者)が殴られ、数百人が死傷した。陸海軍を台湾に特派し、兵力を増強する。まだ、共産党組織が(台湾に)浸透していないので、手をつけやすい」と記した。

 蒋介石は当時、中国大陸で国共内戦を指揮。翌8日には「延安の共産党との戦いで手いっぱいの中で不測の事態が起きた。今月は台湾の対応で忙しい」と嘆いている。

 さらに、「台湾人は(日本植民統治から)中国に戻ったが、長い間、日本に奴隷化され、祖国(中国)を忘れてしまっている」(7日の日記)と、抗議行動を起こした台湾人への不信感も表現している。

 こうした「台湾人による暴動」の早期鎮圧のために軍を派遣したことが、その後の台湾知識人らに対する武力弾圧につながり、「蒋介石は事件の責任がないとは言えない」(中国時報)ことが公開された日記で裏付けられた。
(2008年7月21日21時32分 読売新聞)