【ニッポンの分岐点】日中関係

産経新聞』2013.6.29 2013.7.6 2013.7.13 2013.7.20
【ニッポンの分岐点】日中関係(1)
(1)尖閣「棚上げ合意」 中国“放っておく”が変質
 尖閣諸島沖縄県石垣市)を日本政府が購入した昨年9月以降、中国は尖閣周辺領海への公船侵入を常態化させている。中国側は行動を正当化する理由として、日本側が尖閣諸島の購入により領有権問題の「棚上げ合意」を一方的に破ったと主張。「合意」の主な根拠としているのが、1978(昭和53)年の日中平和友好条約交渉時の会談だ。

 ◆気の重い会談
 78年8月10日午後4時半すぎ、北京の人民大会堂で、外相、園田直(すなお)と副首相、トウ小平の会談が始まった。
 「愛する中国のために、さらに中国よりももっと愛する日本のために(中略)来訪した」
 園田は冒頭、こう切り出した。園田は自身の積年の政治課題である友好条約交渉を妥結するため、満を持して北京に乗り込んでいた。出発日の78年8月8日は「八」が3つ並んで縁起が良い、と喜んだ。交渉は、ソ連を念頭に置く「反覇権条項」の文言調整が2回の外相会談でほぼ終了。トウとの会談は表敬で終わっても良いはずだったが、園田には気の重い役目があった。
 「(尖閣の)領有権で言質を取ってくれ」
 会談の直前、首相、福田赳夫から電話があったためだ。「(日本の)領有の明確化」は、交渉条件として自民党の総務会決議に含まれていた。2回の外相会談で取り上げていないことに慎重派が反発、9日の臨時総務会で政府側を突き上げていた。福田は交渉団への訓令に加え、園田に念押しした。
 「園田さんは『弱ったなあ、弱ったなあ』と言っていた」
 釣魚台迎賓館の一室での電話の場面に居合わせた園田の政務秘書官、渡部亮次郎(77)はこう振り返る。
 ◆メモに押され?
 中国課長として同席した田島高志(77)によると、会談は条約の意義などをめぐるやりとりの後、トウが尖閣に触れ、「数年、数十年、100年でも脇に置いておけばいい」と語り始めた。
 すると、外務審議官、高島益郎、駐中国大使、佐藤正二と席次の逆順にメモが回り始めた。椅子は弧を描くように配置されていたため、中身は田島から見えなかったが、メモを見た園田はトウの発言が途切れた際、「閣下が尖閣の問題に触れられたので、私も一言言わなければ帰れない」と切り出した。
 「尖閣問題についての日本の立場は閣下のご承知の通りであり、先般のような事件(4月の漁船団領海侵入)を二度と起こさないでいただきたい」
 トウの答えは「中国政府としてはこの問題で日中間に問題を起こすことはない」「次の世代、あるいはその次の世代に委ねればよい」。
 園田は特に反応せず、再び取り上げることもなかった。田島は「こちらは実効支配しているし、その時点で得られる最大限のものは得た、良かった、という雰囲気だった」。渡部も「『棚上げ』で合意したとは受け止めなかった」と振り返る。
 ◆「棚上げ」発言の真相
 トウが「棚上げ合意」に明示的に言及したのは10月25日。東京での福田との会談終了間際に尖閣問題に触れた後、日本記者クラブで行った記者会見だ。日本語の記録によると、トウは、72(昭和47)年の日中国交正常化当時と、平和友好条約交渉時に「この問題に触れないことを約束した」と合意の存在を強調。「10年棚上げしても構いません」と述べた。
 当時の音源を聞き直すと、トウは四川なまりの中国語で、合意については「双方約定(シュアンファンユエディン)(双方が約束した)」と明言しているものの、「棚上げ」は「擺(バイ)(放っておく)」という動詞を使っている。中国共産党中央文献研究室編「トウ小平思想年譜」によると、園田との会談でトウは「擺在一遍(バイザイイービエン)(脇に放っておく)」と発言しており、トウの表現は一貫していると考えられる。日本語訳が変わったのは、会談と記者会見で通訳が別人だったためだろう。
 トウは2度目の失脚前の74(昭和49)年10月にも日本からの訪中団に「棚上げ」(中国語不明)を提案しており、条約締結のための一貫した方針だったとみられる。ただ、これ以降、中国側は、首脳間に「棚上げ」で「合意」ができたと主張し続けることになる。
 ◆否定・反論せず
 トウの記者会見の後、日本政府が中国側に抗議した形跡はない。田島は「中国側が問題を起こさないと言った以上、論争しても仕方がない。条約を締結し今後協力を進めていこうという時期で、意見の違いが表だっても得にならないという考えがあったのだろう」と解説する。
 日本側にも「棚上げ合意」を“定説”として受け止める向きもあった。83〜85(昭和58〜60)年に中国課長だった浅井基文(71)は「自分の課長当時、棚上げ合意の存在は省内で共有されていた」と話す。もっとも、文書などで引き継ぎがあったわけではなく、園田・トウ会談の内容などが「皆の頭の中に入っていた」(浅井)だけだという。
 中国が92(平成4)年に領海法を制定、尖閣の領有を明記した際、日本政府は外交ルートを通じて抗議したものの、大使召還や実効支配を強化するなどの対抗措置は取らなかった。
 園田・トウ会談に同席した後の上海総領事、杉本信行(故人)は著書で、会談で双方が「暗黙の了解」に達したことを認めながらも、領海法制定で中国側が「明らかに園田・トウ小平会談での合意を変更してきた」と指摘する。92年の対応が適切だったかを含め、海外勤務中の当時の中国課長に質問状を送ったが、「守秘義務に抵触する」との理由で回答は得られなかった。=敬称略、肩書はすべて当時 (田中靖人)


【ニッポンの分岐点】日中関係(2)
(2)「一つの中国」をめぐる攻防 交渉決めた秘密の腹案
 日本にとって台湾の扱いは戦後、常に難しい課題であり続けている。中国との外交関係だけでなく、米国との同盟関係や日本の安全保障にも影響を及ぼす可能性があるためだ。現在の日中・日台関係を規定した1972(昭和47)年9月の国交正常化でも、台湾をめぐり協議は難航した。
 ■暗礁
 「なかなかね、これは君たちの言うとおりにはならんね」
 72年9月26日午後4時半すぎ、北京の釣魚台迎賓館。第2回首脳会談から戻った外相、大平正芳は苦笑いした。首相、田中角栄を筆頭に北京に乗り込んで2日目。同日午前の第1回外相会談で日本側が示した共同声明の原案を、中国側が拒否したためだ。午後2時からの首脳会談では首相、周恩来が、前夜の宴席での田中の日中戦争などをめぐる「ご迷惑」発言に、語気を強めて抗議した。
 声明の日本案は、「一つの中国」を掲げる中国が条件とした「復交三原則」のうち、中華人民共和国を「中国の唯一の合法政府であることを承認する」として受け入れた。その一方で「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」とする主張には、日本政府が「十分理解し、かつ、これを尊重する」としていた。
これに対し、中国側は「賛同する」ことを求めた。同年2月の米中コミュニケでは「認識する」、5月にオランダが中国を承認した際は「尊重する」と、表現は徐々に強められていた。
 「これ以上、何か知恵はないの?」
 悩む大平に、外務省条約課長だった栗山尚一(たかかず)(81)は「ないわけではありません」と腹案を出した。腹案には「十分理解し、尊重し」に続けて「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」とあった。大平は説明を聞くと「分かった」と言い残し、午後5時10分からの第2回外相会談に臨んだ。この間、わずか数十分。中国側もいったんは留保したが、最終的に受け入れた。腹案のどこに秘密があったのか。
 ■省議経ず
 日本政府は、52年発効のサンフランシスコ講和条約で台湾を放棄し、台湾の法的な帰属先は「発言する立場にない」(政府統一見解)との方針を取っている。ただ、日本が受諾したポツダム宣言第8項は、中華民国への「返還」を掲げたカイロ宣言を引用している。そこで、中国に対し、その「立場を堅持する」と表明すれば、法的な地位とは別に、台湾は中国に返還されるべきだとの“政治姿勢”を示し、中国の主張に歩み寄ることができる−。
 一方で、台湾が中国に返還済みとの主張を認められない理由もあった。『日中国交正常化』の著作がある中央大教授、服部龍二によると、正常化交渉時の日本の方針の一つは、日米安全保障条約第6条に基づき米軍が行動する「極東」に、台湾が含まれるとの立場を堅持することだった。中国の主張に「賛同」すれば、中台紛争は完全に「内戦」とされ、中国が武力行使した際、在日米軍基地を使用する法的根拠が失われる。69年11月の佐藤・ニクソン共同声明に「台湾条項」として明記されたこの立場は、田中自身も訪中前の日米首脳会談で、米大統領ニクソンに事実上、堅持を表明していた。
 相反する2つの要求を満たすギリギリの策として栗山が練ったのが、腹案の文言だった。栗山は腹案を一人で考え、省内での議論を経ずに北京まで持って行った。上司の高島益郎(ますお)条約局長には報告し了承を得たが、「二人三脚」(栗山)で交渉を担当した橋本恕(ひろし)中国課長には「見せた気がする」(同)程度。そもそも声明の日本側原案自体、栗山が8月、約1週間の夏休みを取り知人の別荘にこもり、橋本が示した概要を文書化したものだった。腹案を共有しなかった理由を、栗山は「外に漏れることを警戒した。漏れるとそこからスタートしなければならなくなり、交渉として不利になる」と振り返る。腹案はポケットから出したとされているが、実際は「ポケットはものの例えで当然、カバンに入れていた」という。
 この腹案が交渉の最中に初めて大平に示され、日中の合意となった。
 ■失われた「フリーハンド」
 腹案の影響について、栗山は「最初の案(原案)でまとまれば、日本としてフリーハンドが大きかった」と話す。台湾が独立に動いた際、「中立の態度を取ることもできた」。だが、ポツダム宣言に触れた腹案が声明となり、日本は台湾独立を支持しないことを約束したことになった。その一方、中国側も「武力で台湾を統一しようとする場合は、話は別だということを周恩来首相が正確に理解した」という。
 70年10月の国連総会で、中台を「わが国の隣国」の「分裂国家」と表現し、間接的に「二つの中国」に言及した首相、佐藤栄作の演説や、「一つの中国・一つの台湾が徐々に事実になつ(ママ)て行くよう(中略)努める」とした69年9月の外務省外交政策企画委員会報告書と比較しても、日中共同声明が大きな転換であることが分かる。
 ただ、その後の日本の台湾政策については、国際資料部調査課長として報告書作成に携わった岡崎久彦(83)も「共同声明の線から1ミリも譲っていない」と評価する。2007(平成19)年12月、首相、福田康夫は北京で首相、温家宝と会談。台湾の総統、陳水扁が進める「台湾の名義での国連加盟」の是非を問う住民投票に不支持を表明、中国側の「台湾独立につながる」との主張に配慮を示した。だが、共同記者会見で中国側が「福田首相は台湾独立に反対するとの立場を順守、厳守していくことを表明した」と述べると、福田は発言を求め、台湾独立について「(反対ではなく)支持していない」と、中国側の表現を訂正した。=敬称略、肩書はすべて当時 (田中靖人)
 

天皇陛下ご訪中と「歴史問題」 お言葉で“区切り”のはずが…
【ニッポンの分岐点】日中関係(3)
 終戦から68年を迎えた現在の日中関係で、中国側が「歴史問題」を取り上げる頻度は、1972年の国交正常化前後よりも高まっている。正常化20周年の92(平成4)年に行われた天皇陛下のご訪中では、日中双方の関係者が歴史問題に「一区切り」が付いたと認識したはずだった。だが、その受け止め方の相違は、歴史をめぐる日中間の溝をかえって深める遠因となった。
 ■「深く悲しみとする」
 92年10月23日午後6時半すぎ、北京の人民大会堂の西大庁。有史以来、初めてとなる天皇、皇后両陛下の中国ご訪問を歓迎し、国家主席楊尚昆主催の晩餐(ばんさん)会が開かれた。列席者は日中双方から約120人。濃紺の背広姿の天皇陛下は、楊が歓迎のスピーチを終えると、答礼のため演台に向かわれた。
 「両国の関係の永きにわたる歴史において、わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」
 陛下は、日中関係の歴史を振り返る中でこう述べ、日本国民が戦後、戦争を繰り返さないとの「深い反省」に立って平和国家建設を決意したことも強調された。陛下が席に戻られると、楊は「心温まるごあいさつに感謝します」と述べた。
陛下が「お言葉」で両国の過去についてどう表現されるかは、日中双方の最大の関心事だった。駐日中国大使、楊振亜は回顧録「出使東瀛(えい)」で、会場の様子を「双方の反応は平静で、雰囲気は友好的で穏やかだった」としている。楊振亜によれば、首席随員の副首相兼外相、渡辺美智雄は晩餐会が終わると、楊に対し、陛下が歴史問題で「一区切りつけられた」と述べた上で、「肩の荷が下りたようだ」と漏らしたという。
 ■リスク抱え
 日本国内では、「政治利用」や「謝罪」を強いられることへの懸念から、陛下のご訪中には反対論が根強かった。一部の右翼は神社への放火や首相、宮沢喜一の私邸前で割腹自殺を図って訪中を阻止しようとした。官房長官だった加藤紘一(74)は「今から思えば冒険だった」と振り返る。特に心配したのは中国国内での突発事態。「歓迎の人垣の中に100人、1000人に1人、反日の人がいて、石でも投げて陛下に当たったら、昔なら戦争、今の世でも簡単には済まなかっただろう」と話す。陛下は無事、帰国した28日、羽田空港の貴賓室で加藤に「ご苦労さまでした」と声をかけられた。加藤は「胸に迫るものがあった」という。
 リスクのあるご訪中をなぜ実現させたのか。中国側の思惑については外相、銭其●(=王へんに深のつくり)が回顧録「外交十記」に、89年6月の天安門事件で西側諸国が科した「制裁を打ち破る最良の突破口だった」と記している。ただ、中国側は80年代中頃から繰り返し天皇陛下のご訪中を要請しており、「突破口」は結果論だとの見方もある。
 一方の日本側は、中国側の要望に応える形で、外務省を中心に「国交正常化20周年の天皇ご訪中」という目標が先行した印象が強い。91年11月、宮沢内閣が成立すると、本来「親中派」でなかった渡辺が外相就任後、積極論を唱え始める。加藤が「訪中の立役者」として2人の名を挙げたうちの1人、駐中国大使の橋本恕(ひろし)は92年6月、自民党内の「説得工作」のために帰国。楊振亜に対し「正常化20周年は千載一遇の好機で、失われれば二度と来ない」と述べたとされる。もう1人のアジア局長、谷野作太郎(77)は、「積極論者の中には、中国の実力者ナンバーワンのトウ小平が元気できちんと中国を取り仕切っているうちに、という気持ちがあった」と答えた。
 ■認識の隔たり
 「お言葉」の内容には、陛下ご自身の意向が反映された可能性が指摘されている。陛下は訪中前の10月15日の記者会見で「近代」の「不幸な歴史」や「戦後、日本」の「平和国家」に言及されていた。谷野は「外交行事の際の『お言葉』は、外務省が案を用意し必要に応じ官邸の決裁を得て、最後に陛下のご決裁を仰ぐ。その際、陛下自身の筆が入ることもあり、陛下のお気持ちと離れたものになることはない」と示唆的な答え方をする。
 当時の日本政府関係者によると、陛下の訪中時の「お言葉」により、日中の「歴史問題」に一区切りが付いたという認識が「日中双方にあった」という。だが、防衛研究所教官の杉浦康之は「日本側がお言葉を日中和解の“到達点”と位置付けたのに対し、中国側は“起点”とした」と指摘する。双方の認識の隔たりは、98(平成10)年11月の国家主席江沢民の来日時に顕在化する。
 中国側は、水害対応で9月の訪日が延期になり、10月の韓国大統領、金大中訪日時の日韓共同宣言に「植民地支配」への「痛切な反省と心からのおわび」が明記されたことから当初の姿勢を一転させ、日中の共同文書にも「謝罪」を明記するよう要求してきた。日本側は断固として応じず、首相、小渕恵三が首脳会談で「侵略」に「痛切な反省」を示した村山首相談話(95年)に触れ、「改めて、この反省とおわびを中国に対しても表明する」と口頭で告げることとなった。
 だが、11月26日の会談後に皇居で開かれた晩餐会の挨拶で、江は「日本軍国主義」の「対外侵略拡張の誤った道」という強い表現で「歴史問題」に拘泥する姿をあらわにした。対照的に、陛下の「お言葉」には、6年前の訪中の思い出や江夫妻への歓迎の言葉が並び、「歴史問題」への言及は一切、なかった。=敬称略、肩書は当時 (田中靖人)


【ニッポンの分岐点】日中関係(4)
対中円借款“卒業” 「友好と協力」時代の終わり
 中国の改革・開放政策を支援する目的で1980(昭和55)年度から始まった対中円借款は、2007(平成19)年度新規供与分でその役割を終えた。円借款は冷戦期に西側からの対中援助の先鞭となり、天安門事件後などに一時凍結されたものの一貫して中国の経済発展に貢献してきた。日中の友好と協力の象徴とされた対中円借款はどのように「終わり」を迎えたのか。
 ■就任直後
 04(平成16)年10月3日午後、東京の日比谷公会堂では、政府開発援助(ODA)開始50周年記念タウンミーティングが開かれていた。会合の後半、聴衆から対中ODAの継続に批判的な質問が出されると、壇上の外相、町村信孝は対中ODAの現状や意義を説明しつつ、こう答えた。
 「いつまでも中国に対して援助し続けていくとは考えられない。いずれ中国が日本のODAから卒業する日が来るものと予想される」
 日本政府高官から、初めて対中ODAの「卒業=終了」が語られた瞬間だった。町村は外相に就任して1週間。「卒業」は事務方の準備にない表現だった。隣席にいた慶応大教授、草野厚は「違和感はなかったが、インパクトのある言葉遣いだった」と振り返る。
対中円借款について著作がある明治大准教授、関山健によると、1990年代以降、円借款が大部分を占める対中ODAには、日本国内で厳しい意見が出ていた。その理由は、(1)日本は経済・財政の悪化で余裕がない(2)中国の軍備増強は援助国の軍事支出に「十分注意する」とした「ODA大綱」に反する(3)中国側から謝意の表明がない(4)中国は著しい経済発展で援助の必要がなくなった(5)中国は援助を受ける一方で他国を援助している−というものだった。批判を受け、対中円借款は2000年度の2144億円を頂点に削減が始まり、03年度は967億円と、わずか3年で半額以下にまで圧縮されていた。
 さらに04年7、8月に中国で開かれたサッカーアジア杯では、観衆の反日行動が相次ぎ日本公使の公用車襲撃事件も発生、日中双方の国民感情が悪化していた。発言後の11月に公表された参院ODA調査団の報告書も、対中ODAを「引き続き推進することの必要性は見当たらなかった」としていた。
 ■ODA全廃も検討
 ただ、こうした“世論”の中でも、前任の外相、川口順子は「引き続き案件を精査していきたい」と、「卒業」までは踏み込まなかった。経済協力開発機構OECD)の基準に基づく国際協力銀行の借款供与条件は当時、1人当たり国民所得約5000ドル以上を対象から外すとしていた。03年の中国は約1100ドルで、範囲内だった。
 「卒業」に言及した理由について、町村は「中国が世界中で積極的に援助を行う姿を海外の視察で何度も目にしていた。そこまでする以上、援助をもらう側にいるのはおかしい、と外相就任前から思っていた」と振り返る。関山の研究や町村の証言によると、町村は「卒業」発言と前後して事務方に具体的な選択肢の検討を指示する一方、中国側の反応を探ることも命じた。
 外務省では円借款だけでなく無償資金協力などを含むすべてのODAを終了する案も検討した。この過程で、対中外交を担当するアジア大洋州局は、ODAはもはや対中外交の手段として有効ではないとして、判断をODA全般を担当する経済協力局に委ねた。その結果、「巨額のプロジェクトは中国独自の資金で行うべきだ」(町村)として、円借款のみの終了が決まった。
 中国側の反応は、毎年度の予算編成を担当する財政省が難色を示したものの、外務省や国内の開発計画を取り仕切る国家発展改革委員会は異論を差し挟まなかった。01年度以降の円借款は、複数年度ではなく毎年、案件ごとに審査する「単年度方式」に変更され、中国側から見て使い勝手が悪くなっていたことも理由とみられる。
 日本国内、特に自民党内の終了反対派には、町村自身が電話や直接会うなどして説得した。首相、小泉純一郎には「この件で話をした記憶はない」(町村)という。「結局、日本人が思っているほど中国は円借款を必要としておらず、反対論は日本国内の方が大きいことが分かった」と町村は話す。町村は05年3月15日、外相、李肇星と電話会談し、新規供与を08年の北京五輪までに終了する方針を伝えた。
 ■「終了」伝達の意味
 日本が対中円借款の「終了」を通告したことについて、関山は、適当な案件がある場合にのみ供与を続けているタイを例に挙げ、「終了すると明言はせず、外交ツールとして利用し続ける方法もあった」と指摘する。その上で、円借款終了を「日中関係の質的変化を象徴する出来事」と表現する。
 慶応大准教授(現代中国政治)、加茂具樹は「中国を国際社会に取り込むという初期の目標は達成された」と円借款自体は評価しつつ、終了の方法については「中国側は円借款を戦後賠償と見なす一方、日本側は巨大化する中国との距離の取り方に戸惑い、国内のフラストレーションが『卒業』論につながった」と指摘する。
 町村は終了通告から約1カ月後の4月17日、北京で李と会談。約4時間に及ぶ会談では、小泉の靖国神社参拝や直前の反日暴動の謝罪と賠償、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りなどをめぐり「激しいやりとり」(町村)が行われたが、円借款は「有終の美」(李)に向かうよう事務レベルの協議を行うことが確認されただけだった。=敬称略。肩書、組織名は当時(田中靖人)
 ■円借款 政府開発援助(ODA)のうち、2国間で行うもので、開発途上国に対し、低金利で返済期間の長い緩やかな条件で開発資金を貸し付ける援助。円建てで行うため円借款と呼ぶ。2国間のODAには、円借款のほか、資金を贈与する無償資金協力や研修生受け入れなどの技術協力がある。日本の対中円借款の援助総額は3兆3165億円。円借款終了後も環境分野などの無償資金・技術協力は行われている。