記事:5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー

5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー(1)
2011年05月16日17時27分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

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当時の朴正煕陸軍少将を支援して偉業を成し遂げた金鍾泌キム・ジョンピル)元総理(85)。
5・16軍事クーデターは韓国史の最もドラマチックな反転だ。建国の使命を成し遂げた李承晩(イ・スンマン)時代のバトンが朴正煕(パク・ジョンヒ)時代へ渡る場面だ。朴正煕(パク・ジョンヒ)の5・16勢力は産業化と自主国防を掲げて韓国社会の変革を主導した。

5・16軍事クーデター50周年を控えた12日、当時の朴正煕陸軍少将を支援して偉業を成し遂げた金鍾泌キム・ジョンピル)元総理(85)にソウル新堂洞(シンダンドン)の自宅で会った。‘革命家の視線’はその時、その瞬間をはっきりと記憶していた。

−−3700人にしかならない少数兵力でどう政権を掌握したのか。20個師団を持つ1軍が反撃作戦をすれば失敗しただろう。

「朴正煕大統領が殺害された時(1979年10月26日)、青瓦台(チョンワデ、大統領府)の朴升圭(パク・スンギュ)民政首席が私に泣きながら電話をして、早く来いということだった。『大変なことになった』と思って行ったが…そこで私が驚いたのは、あれほど厳重警備だった青瓦台に誰もいなかったことだ。みんなやられたのだ。3700人が少ない数字だろうか。革命は数字ではない。そう考えれば何もできない」

−−最も危険な瞬間はいつだったか。

「5月16日午前1時、2時ごろか、漢江(ハンガン)の橋を渡る時だった。その直前に6管区司令部にいた朴正煕少将に対し、張都暎(チャン・ドヨン)参謀総長が『戻ってこい』と話したが、その時、朴少将の心が揺れていたらすべて終わっていたはずだ。朴大統領は張都暎総長に断固たる意志で『私たちは行動を開始しました』と答えた。第6軍団砲兵団がソウルに進撃し、海兵隊が入っていた。私は鍾路(チョンノ)で革命公約を印刷していた」

−−5・16は革命か、クーデターか。

「私は激動期を経験してきたが…。5・16をクーデターとかレボリューション(革命)とか言うが(語調を強めながら)クーデターとすれば身分が上がるのか。クーデターは同じ階層にある人が変乱を起こすことであり、レボリューションは民心を基礎に下から起きて権力を変えることだ。そう考えると5・16はレボリューションだ」

−−下級の将校が権力を変えたという意味か。

「違う。5・16は庶民層が支持した革命ということだ。庶民は支持していた。上層にいた人たちは反対した。一般庶民がそれとなく世の中の変革を望んでいた。そのため革命をするという噂が広まってもどうすることもなかったのだ」

−−噂が広まったが、張勉(チャン・ミョン)政権が防げなかったのはミステリーだ。

「張勉総理はうわさを気にしていなかったようだ。当時こういう話が李厚洛(イ・フラク)氏(張勉国務総理室直属情報委員会室長)のような人の耳に入らなかったはずはない。すべて聞いていても、まさかという程度の認識だったのだろう。李翰林(イ・ハンリム)1軍司令官は報告を受けて革命軍を攻撃する準備をした。ところがわれわれが先に行った。民心がわれわれの味方だった。尹ボ善(ユン・ボソン)大統領も5・16の報告を受けて『来るべきものが来た』が最初の言葉がこれだった。現職大統領が『来るべきことが来た』と言えば、分かっていたということだ」

5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー(2)
2011年05月16日17時27分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

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若い頃の金鍾泌元総理。 1952年に長女イェリを抱いて妻朴栄玉氏と家族写真を撮影した。
インタビューの席に座るやいなや、休む間もなく5・16の話をした。金鍾泌元総理はジャンパーを着た姿で気楽に話を続けた。金元総理の左右には古いソファがあり、向かい側の壁の上に「笑而不答」(笑いで返事の代わりをする)と書かれた額縁が掛かっている。

#クーデターかレボリューションか

−−中央日報が今年、韓国史科目を必修とする運動を行っている。4・19革命と李承晩大統領の歴史的な和解も提案した。

国史教育がなくなってから、また復活させたのは評価できる。歴史をありのままに表現せず、悪く表現してこそ自分の都合によいと考える人たちがいる。そういう人たちがわが国の歴史を歪曲させている」

−−4・19革命当事、朴正煕少将は釜山(プサン)地域の戒厳司令官だった。1960年4月24日、釜山で合同慰霊祭が開かれたが、朴正煕少将が弔辞を読んだ。「皆さんの永訣は自由のための私たちとの誇らしい結縁です」と述べた。

「5・16革命の主旨文で4・19の精神を継承するといった。4・19は革命だが、それを継承した5・16はクーデターとはおかしくはないか。主旨文は私が書いた。こういう話は今まで一切しなかった」

−−エジプトのナセル、トルコのケマル・パシャビルマミャンマー)のネウィンなど新生国の軍事革命を参考にしたという。最も強烈な印象を与えたロールモデルは誰か。

「ナセルだ。時間的にそれほど経っていなかったし(エジプト革命は1952年)、ナセルがともに革命を起こしたナギブを抑えて大統領になる過程を詳しく調べた」

−−ナセルとナギブの関係が興味深い。

「5・16が成功したずっと後のことだが、それと関係したことがあった。私の家の四方を中央情報部が監視した(朴正煕大統領が金元総理を牽制したという意味)。私は耐え兼ねて青瓦台に行き、朴大統領に不平を言った。『私がナセルですか。何を監視するのですか』。私があなたの地位を狙うと思うのか、こういうことをナセルを引用して表現した。すると朴大統領はしばらく目を閉じて何も言わなかったが、照れくさそうな表情で『その可能性もあるだろう…』と話した。私はその場面を忘れない」

−−権力の冷酷さだ。

「私は一貫してそれ以上の欲は出さず、支援した。中央情報部長を引き受けたのも私の他にそういうことをする人がいないので、いろいろ批判の声を浴びながらした。私もただ最高委員をして気楽に過ごせた。 革命を後押ししたのだ。 始終一貫」

−−今でも若く見えるが、当時が30歳代だった。

「35歳だった」

−−その年齢でどうやって歴史の変化を企てたのか…。

「今でも変わっていないが、人の助けを必要とせず安らかに暮らせる国を作ることしかない。62年に米国に渡った当時、ロバート・ケネディに会った。 キューバ事件が10月22日だが、第3次世界大戦が起こるかどうかというその日だ。 ケネディ大統領が安保会議を主宰するからといって、弟のロバート・ケネディ司法長官に会えと言ったのだ。 司法長官室で会った。 ところがこの人が自分の机の引き出しに両足を上げて私を見ながら話した最初の言葉が『来た目的は何か』だった。 私は腹が立ち、こんな無礼なことがあるか、私は小さな国の者だが、足を上げて見下ろして何をしに来たのかとはどういうことか、 きっと私を試しているのだろう、と思った。 何と言えば短い言葉で良い返答になるか。 立ち上がって『ここ来たのはあなたたちが来いといったから来た。 なぜ革命をしたのかと質問されると理解している。 よくその質問をしてくれた。 大韓民国アメリカ合衆国の荷物にならない国を作ってみたかった』と話した。 そういうとにっこりと笑って足を下ろし、手で引き出しを入れた。 そして向こうから本を持ってきたのは、自分が書いた本だった。 私の名前のスペリングを尋ねて、親愛なるJP Kimと書くと、これで許してほしいと。そして死ぬまで(68年)親しく付き合い、韓国に2度来た」

#朴正煕の権力意志

−−5・16を成功させた背景には朴正煕元大統領と金鍾泌元総理の国家改造のための権力意志があるためではないのか。

「朴正煕大統領が亡くなり、私がどう考えたか分かるか。朴大統領の救国の基礎になったものは維新だった。 維新体制を作り、非難を浴びても強行して70年代に重化学工業化の基盤まで固めなければいけない、そして維新をした。 朴大統領が亡くなってから、維新体制もなくなった。80年代の大統領は維新体制を継承する世代ではなく、民主化をする勢力でなければいけないと考えた。 それで憲法を変えようと言った。 結果的にはだめだった。 崔圭夏(チェ・ギュハ)元大統領とその後ろにいた申鉉ファク(シン・ヒョンファク)元総理の協調があればよかったのだが…」

−−5・16当時、朴正煕少将の魅力、リーダーシップはどういうものだったのか。

「私は一時、朴大統領を左翼ではないかと疑ったことがある。 韓国戦争(1950−53)が起きてから疑いは解けた。 当時、朴大統領が共産主義者なら漢江を越えず、そうでなければ漢江を越えるだろうと考えた。 水原(スウォン)に到着すると、そこにいた。 それで疑いが完全に消えた。 しかしCIAソウル支部長のシルバーは5・16当時にも朴正煕少将を共産主義者と疑っていた」

#参加者全員が貢献

−−革命を構想した将校は朴正煕のどんな点に引かれたのか。

 「剛直、清廉だ。 整軍運動が革命に発展したが、その時、将軍はすべて腐敗していた。 朴正煕は志のある将校たちの尊敬を受けていた。 この人しかいない。 そういう考えが広まっていた。 当時、私が(朴正煕の)めいを(妻として)迎える前だ。

−−清廉と剛直。

「そのうえ有能だ。1949年に総合敵情報告書というものを作ったが、それを見て朴正煕が北側が近く攻めてくると話した。 攻撃準備の第1段階ができたため攻めてくると言ったが、まさにその通りだった。 韓国戦争の時、朴大統領が6カ月前に予想した侵入経路をそのまま南下してきた」

−−最も貢献したのは誰か。 キム・ユングン海兵旅団長、パク・チオク空輸団長ら実兵力指揮者の功績の順序は。

 「そういうものはない。 みんな純粋な考えでした。 みんなが貢献した」

金鍾泌元総理は5・16の前日、家を出ながら妻・朴栄玉(パク・ヨンオク)氏に「もう会えなくなるかもしれない」と話したという。 「生きて戻れるという考えを抱くようになったのはいつか」と尋ねると、金鍾泌氏は「5月19日にマグルーダー米第8軍司令官に会ってから」と答えた。 米軍の作戦指揮権が侵害されたというマグルーダー司令官に対し、金元総理は「では革命をする時に兵力を出動させますと言って革命をするのか」と話したという。 この談判が米国側から5・16主体勢力の存在を認められる韓米共同声明が出る契機になったということだ。

金元総理は61年2月15日、整軍運動をして服を脱いだが、5月16日付で中佐に復帰した。 准将として予備役に入ったのは翌年、民主共和党を創党する時だ。 革命を話す金元総理の目には青年のような輝きがあった。 金元総理は「私たちは純粋だった。 あれこれと不必要に説明することがなかった」と話した時は手を強く握り締めた。 「革命をしよう、すべて叩き潰そう」と話せば、相手はすぐに合流したということだ。

インタビューの後、金元総理は歩行運動のために家を出た。 金元総理は08年12月15日に脳卒中で倒れた後、超人的なリハビリ運動を通して回復した。

5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー(3)
2011年05月17日11時01分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

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13日午前、ソウル南山(ナムサン)公園を訪れた金鍾泌元総理が曾孫を見ている。
5月の南山(ナムサン)はさわやかだった。13日午前11時、グランドハイヤットのホテルの向かい側、南山(ナムサン)公園を回りながら、金鍾泌キム・ジョンピル)元総理が散歩をしている。南山一帯を彩る花の間を歩く金元総理には孫嫁が同行した。孫嫁は金元総理が「ナポレオン・ボナパルト」と呼ぶ息子を抱いていた。

記者は「5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー」(中央日報日本語版5月16日付)という記事が掲載された後、読者が知りたがっている点を聞くために金元総理が運動をする場所を訪ねた。

5・16当時、金元総理が革命公約と主旨文を印刷した後、真っ先に向かったのが南山にあるKBS(韓国放送公社)放送局(当時は中央放送局)だった。革命は宣伝を通して完成されることを金元総理はよく知っていた。

−−革命は武力を掌握することで終わるのではないようだ。

「革命のようなことをして真っ先に確保しなければいけないのは放送局だ。放送するだけでなく、送信局も掌握しなければならず、そうしてこそなぜ革命をしたかを知らせることができる。送信局の掌握チームも別にあった。大衆の共感を確保することが成敗を左右する」

−−周到綿密だ。

「航空機でも革命公約をまいた。イ・ウォンヨプ将軍は第5期生だが、当時は大佐で、L−19を操縦しながら革命公約、主旨文をソウル・大邱(テグ)・釜山(プサン)上空からばらまいた」

−−KBSに進入したところ、どうだったか。

「その日未明、朴正煕(パク・ジョンヒ)少将と一緒に行ったが、軍服を着た人たちが入ってくるので、みんな北朝鮮の共産軍が攻め込んできたと思ったようだ」

−−パク・ジョンセ・アナウンサーが革命公約を読んだ。直接発表しなかった理由は。

「最初は朴正煕少将が読めばどうだろうかとも考えたが…朴少将は声が少し硬い。それでアナウンサーが読む方が聞く人を安心させられると考えた。声を聞いだけで誰でも分かるほどパク・ジョンセは有名だった。国民が聞いて安心することが重要だと考えた。もともと前日の夜からどこにも行かないようにしようとしたが、ちょうど当番で放送局にいた。パク・ジョンセ・アナウンサーは最近、何をしているか気になる。最初は慎重な姿だったが、読んでからは次第に興奮するような感じだった」

−−放送局が目標になっていたのか。

「目標ではなく、それが開始だ。国民に広く知らせるのが始まりだ」

5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー(4)
2011年05月17日11時01分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

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金鍾泌元総理とチョン・ヨンギ中央日報編集局長が南山公園のベンチに座って話している。
−−革命公約と主旨文は金鍾泌元総理が作成したのか。

「そうだ」

−−その中に4・19革命の精神を継承するという言葉が入っているが。

「腐敗し、無能な政権は国を滅ぼす。こういう政権は覆さなければいけない。そうして起きたのが4・19ではないのか。多くの市民が歓呼した。5・16もこうした腐敗・無能政権を倒してしまう精神が起こしたのだ」。

−−反共を国是とするというのはなぜ含めたのか。

「われわれが確立する姿勢を明確にしたのだ。それ以前は反共も容共もなく、何が何だか分からなかった。学生が肩を組んで板門店(パンムンジョム)に行き、北側と交渉しよう、何々をしようと叫び、国会に入ると『お前たちが何の国会議員だ』とこういう感じだ。国会も開けなかった…そういうことで国とはいえない」

読者が知りたがっているもう一つの疑問点を尋ねた。

−−5・16が成功した後、軍事革命委員会の議長をなぜ朴正煕少将ではなく張都暎(チャン・ドヨン)参謀総長が引き受けることにしたのか。

「朴正煕大統領がそうしろと言った。私は反対したが。『張都暎将軍に何の関係があって革命委員会議長を引き受けるのか』と話すと、朴少将はしばらく目を閉じて、『あなたも分かるでしょう。陸軍参謀総長ではないか』と答えた。その一言に深い恨が込められているのが分かった。朴大統領はあたかも『私を共産主義者にするやつらがいるから、私が指導者になれば革命がだめになるかもしれない。現役参謀総長なら国民が信じるのではないか』…そういうことは言わなかったが、そう理解した。お茶を一杯飲んで『分かりました』と答えた」

−−張都暎総長が後に問題になればどうするつもりだったのか。

「それで私が7月2日に除去した。朴大統領には話もせず…大変なことをした」

金元総理は1995年、金泳三(キム・ヨンサム)政府が全斗煥(チョン・ドゥファン)・盧泰愚(ノ・テウ)新軍部勢力の‘成功したクーデター’を処罰する法を作る時に賛成した。その時、記者が「本人はクーデターをしながら、なぜ他人のクーデターを処罰しようとするか」と尋ねると、金元総理は笑いながら「私がしてみたから悪いことを知っている」と妙な返事をしたことがある。

−−また革命しろと言われればするか。

「もうできない」

−−革命は30歳代(当時は35歳)にすることか。

「30歳代であれ、20歳代であれ、50歳代であれ、何も知らずにしたものだ。いま考えれば恐ろしい。5月15日のことがうまくいかなければそのまま銃殺されたはずだ」

−−総理には風雲児という言葉が付いているが。

「風雲児とは…。風雲は風と雲という意味だが。日本では『千の風になって』という歌が流行したが、こういう一節がある。私のお墓の前で泣かないでください/そこに私はいません眠ってなんかいません/千の風になってあの大きな空を吹きわたっています…。人生であれ革命であれ頑張って生きて、人にすべて渡して空になって行ってしまうのだ」