記事:核密約、「事前協議制度」解釈の違いが発端 関係者証言

核兵器を積んだ米国の船や航空機の寄港・通過を認める「核密約」が成立した経緯が、関係者の証言で判明した。60年の安保条約改定で始まった「事前協議制度」で、日本側は当初、寄港・通過を協議対象になると理解。米国側は対象外と解釈していた。その後日本政府はひそかに解釈を米側に合わせ、寄港・通過を黙認。非核三原則(67年)の「持ち込ませず」は最初から空洞化していた。

 日本政府は解釈の変更を米側と確認した後も、実態とかけ離れていることを承知で、国会などで従来通りの答弁を繰り返した。外務省内ではその後、核の寄港・通過を公然と認めるべきだという「正面突破論」が何度も浮上したが「内閣が崩壊しかねない」などの理由から、その都度立ち消えになったという。

 外務省内で核密約を扱う立場にあった元幹部6人が、朝日新聞の取材に対して、こうした経緯を証言した。何人かはこの夏、外務省の現役幹部に詳細を説明したという。

 証言をまとめると、「核密約」は(1)日本側が「解釈の食い違い」を米側に合わせる形で埋めた(2)そのため、核の寄港・通過が継続された(3)日本政府は国民にその事実を隠し続けた――という経緯で段階的に成立したことになる。

 「解釈の食い違い」の発端となったのは、安保条約改定の際に導入された事前協議制度の詳細について日米で確認した「討議記録」。今も極秘扱いとなっている。この中に事前協議制度が「米海軍艦艇の日本領海・港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものとは解釈されない」との一文がある。50年代から核の寄港・通過を自由に行っていた米側は、この一文で事前協議に縛られないと解釈した。だが、米側が具体的に説明しなかったため、日本側は寄港・通過が「事前協議の対象」になったと理解。双方が都合よく解釈していたのだ。

63年に池田勇人首相が行った「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわない」という国会答弁などを知って「解釈の食い違い」を懸念した米国は、同年4月にライシャワー駐日大使が大平正芳外相に米国の解釈を伝えた。さらに68年1月には、ジョンソン駐日大使が牛場信彦外務次官と東郷文彦北米局長に詳しい経緯を説明した(肩書はいずれも当時)。東郷氏は60年安保条約交渉に担当課長として臨んだ当事者だったが、このとき初めて「解釈の食い違い」を知り、自らの不明を恥じる文書を内部に残していたという。(本田優

朝日新聞』2009年9月21日3時2分

岡田克也外相は20日、テレビ番組で、密約調査について「今まで携わった経験のある人、外国に出ている人も一部呼び戻し、資料を読み込んで事実関係を明らかにする」と述べた。外務省は、大臣官房の北野充審議官をトップとする約15人の調査チームを25日に立ち上げ、外務省内に保存されている関係資料の調査を開始する。

 調査対象とされているのは、60年の日米安保条約改定に伴う「核密約」のほか、朝鮮半島有事の際に日本からの出撃を認めた密約▽72年の沖縄返還時の、有事の際の核持ち込みについての密約▽沖縄返還時の米軍基地跡地の原状回復費の肩代わりについての密約――の4件だ。岡田氏は11月末までに調査結果を報告するよう求めている。

 省内には日米安保関係のファイルが2694冊、沖縄返還関係のファイルが571冊残されているほか、在米大使館にも約400冊のファイルがあるという。当面これらが調査対象となる。核密約については、日米の解釈の食い違いを生むきっかけとなった「討議記録」や、その解釈についての内部文書が見つかるかどうかが焦点となる。

 岡田氏は、外務省の調査チームの作業開始後1カ月をめどに、外部の専門家らを交えた第三者委員会を発足させ、見つかった資料の精査や、日米の当時の関係者からの聞き取り調査を行う方針だ。

 こうした調査の結果、密約の存在が裏付けられたとしても、外務官僚の責任は問わない考えだ。

 密約の存在が明らかにされた場合、日本の非核政策と安全保障政策をどう整合させるか、鳩山政権の将来に向けた取り組みが問われることになる。

朝日新聞』2009年9月21日8時12分