記事:小笠原諸島:返還合意直前・67年、核基地化検討

東京・小笠原諸島:返還合意直前・67年、核基地化検討 日米、対中戦想定

 

小笠原返還が合意される直前の1967年8月、日米の外交防衛当局者が東京で秘密裏に会合を開き、米国が中国との限定核戦争を想定して小笠原への核持ち込みを含めた軍事利用を提案し、日本側が前向きな回答をしていたことが、機密指定を解除された米公文書で明らかになった。64年10月に中国が核実験を実施し、日本に対する米国の核の傘の実効性が問題になっていた時期で、日米が対中国の核戦略で際どい判断に踏み込んでいた状況を示す文書として注目される。

 西南女学院大の菅英輝教授(国際政治学)が米国立公文書館で入手した、67年8月22、23日開催の安全保障協議委員会(SCC)小委員会の議事録。

 ジョンソン駐日大使が「中国と対潜水艦戦になった場合、小笠原諸島は航空機や艦船用の核兵器の貯蔵・供給基地として非常に役立つ。海上自衛隊は対潜作戦に出てくれるだろうか」と提案。カズンズ米太平洋軍総司令官も「海での核戦争は陸まで拡大することなく、遂行可能という説があり、重要な点だ」と協力を求めた。

 これに対し、日本側の牛場信彦外務事務次官は「小笠原を使ったシーレーン防衛で、応分の負担をする準備がある」と答えた。

 当時、外務省北米1課長として出席していた枝村純郎元駐ソ大使は、毎日新聞の取材に「米軍にとって小笠原がどうしても必要となる事態になれば、日本本土も巻き込まれる。その場合は事前協議で日本の基地も利用可能になる」と証言。有事の際には、小笠原に核兵器が持ち込まれる可能性を念頭に置いていたと認めた。

 これまでに公開された米公文書によると、小笠原諸島には父島と硫黄島に65年まで米軍の核兵器が配備されていたが、67年にはすべて撤去されていた。

 SCCは60年の日米安保条約改定時に設置され、日本側は外相と防衛庁長官が出席したが、米側は94年に「2プラス2」として外交・防衛担当閣僚に格上げされるまで駐日大使と太平洋軍総司令官が出席していた。

 67年当時は、日米で実質的な防衛協議を行いたいとする米側の求めで、日本側も次官級が出席する小委員会がひそかに設置され、旧外相公邸などで開かれていた。<2面に「アメリカよ 新ニッポン論」、10〜12面に特集>

毎日新聞 2009年5月5日 東京朝刊