書評:斎藤明他『転換期の安保』毎日新聞社、1979年

 東西冷戦の産物ともいえる日米安保条約が、冷戦終結後の今日に至るまで機能してきたのはなぜか。おそらくこの問いに対しては、日米同盟の機能と性質が、いくつかの局面を経て変容してきたためという答えが的を得ていよう。
 日米同盟の変容を考察する上で、1960年代末から1970年代初頭にかけての国際政治の転換は重要な局面であった。朝鮮戦争以来、米国を敵視した中国政府は、日本との国交回復に際して、日米同盟の破棄が必要であるという立場を貫いてきた。中国の「中間地帯論」に基づく対日戦略は、日本を米国から引き離すことに重点が置かれていたからである。
 しかし、1969年の中ソ武力衝突によって、ソ連が中国にとって「主要敵」として浮上してくると、こうした中国の対日戦略は根本から見直された。米中接近が現実味を帯びてくる中で、中国政府は、これまで展開してきた日米安保批判を控えるようになった。こうした転換は、日本の革新勢力にとって大きな打撃となった。社会党にとって日中国交回復は、日米安保破棄という公約を正当化するための有力な根拠であったためである。革新勢力が再び一大国民キャンペーンとして展開しようして、ついには不完全に終わった70年安保闘争の背景には、こうした中国の対外戦略の転換があった。
 「イデオロギー」から「パワー・ポリティクス」へと変容する国際政治に揺さぶられたという点では、革新勢力のみならず、70年安保条約の延長を乗り切り、東京オリンピック以来の大阪万博という繁栄の祭典の中で「保守の勝利」を確信した佐藤政権も同様であった。しかし、危機への対処という点では自民党社会党に比べてはるかに優れていた。自民党の派閥政治は、一方で日本政治の停滞の大きな原因であったが(佐藤政権以後、70年代の「三角大福」の激闘が自民党史上最悪の派閥抗争になることを考えると興味深い)、危機に際しては、柔軟な政策転換を担いうる原動力となる。米中接近の衝撃を受けた後、佐藤政権は、確実に日中国交正常化に向けて動きを早めていた。日中復交に際して、最大の障害とも言える日米安保における台湾条項を、曖昧に処理することで、佐藤の後をついだ田中政権は、日米安保を傷つけることなく日中国交正常化を実現した。そして、北京から帰国した直後に田中は、中国から軍国主義復活の象徴として批判を受けていた「四次防」の「ゴー・サイン」を下し、日米安保は新たな時代を迎えるのである。
 ニクソンショック前後の「安保の転換」を描いた本書は、いくつかの未公開資料とインタビューを駆使して、日本外交の転換期を描いた好著である。新聞連載を元にしていることから読み物風になっており、読みやすい反面、若干つっこみが足らない点もあるが、未だ本格的研究が少ない当該時期の安保を考える上で実に示唆に富んでいる。三十年近く前の著作であり、入手困難であるが日米安保の今日を考える上でも必読であるといえよう。