記事:米艦船の核兵器持ち込み

アメリカよ・新ニッポン論:検証(その3止) 米艦船の核兵器持ち込み(1/10ページ)

 毎日新聞 2009年5月5日 東京朝刊

■検証・米艦船の核兵器持ち込み
 ◇持ち込みなんて大げさな…−−岸信介元首相

 原子力兵器を装備した船が入ってきたから持ち込みだなんて、大げさな、そんなこと考えてなんかいませんでした。我々の持ち込みだということの考え方は、陸上に装備されることを言うんでしてね。

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 1981年5月18日、毎日新聞ライシャワー元駐日大使の「核持ち込み」証言を特ダネで報じ、日本中に衝撃を与えた。核搭載米艦船の寄港を知っていながらあいまいなままにしていた日本政府の立場を、誰よりもよく知っていたライシャワー氏は、なぜあえて大胆な証言に踏み切ったのか。

 毎日新聞ライシャワー氏への取材に先立つ約半年間、この問題を60年安保改定交渉や沖縄返還交渉時の経緯にまでさかのぼって関係者たちに取材している。あれから28年。歳月は、新たな視点を提供してくれた。当時の取材メモを基に、いま改めて「ライシャワー証言」の意味を検証する。(太字は、いずれも81年当時の取材メモから。肩書は81年時点)

◇そこまでいうと内政干渉に−−楠田実・佐藤栄作元首相秘書官

 (非核三原則の)「持ち込ませない」というのは、陸に貯蔵庫を造るとかを指している。それ以外は認識の外。そこまでいうと米国の全核戦略体系に触れる問題。(米国への)内政干渉になる。あいまいな部分があっていいということの典型的なものだ。

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 非核三原則は、71年11月の国会決議に「政府は核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずの非核三原則を遵守(じゅんしゅ)する」と明記され、「国是」となった。しかし、政権担当者たちは当初から「持ち込み」と非核三原則の矛盾を自覚していた。

 佐藤元首相は67年12月の国会答弁で「私どもは核の三原則、核を製造せず、核を持たない、持ち込みを許さない、これははっきり言っている」と初めて表明。68年1月27日の施政方針演説でも「核兵器の絶滅を念願し、みずからもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意」と明言した。

 ところが、佐藤元首相は施政方針演説から、わずか3日後の国会答弁で、非核三原則に「核軍縮」「米国の核抑止力への依存」「核エネルギー平和利用」を加えた「核4政策」も打ちだした。「米国の核抑止力への依存」を非核三原則の前提にすることで、「持ち込ませない」の意味を薄める狙いだった。

 楠田氏は81年の毎日新聞の取材に対し「(非核三原則は)核の傘の下にいると言いながら、核の下にいなくなってしまう。危険を感じたので、急に核4政策をでっちあげた」と明かしている。

 当時は中国の核実験が64年に行われたばかりで、日本の非核政策の行方が問われていた。「核4政策」は、非核三原則核武装を否定する半面、その原則を維持するために米国の核の傘に入っていると確認し、核廃絶をすぐには実現できない「念願」と位置づけて整合性をつけた。「でっちあげ」とはいえ、現在も日本の核政策は、この枠組みにのっとっている。

◇国会決議は政策的失敗だ−−木村俊夫官房長官

 非核三原則は内閣の方針で、国会で決議すべきものではない。「持ち込ませない」が一番問題になる。しかし、沖縄返還の荒れた国会で切羽詰まって、とうとう公明党(当時は野党)と保利(茂・自民党幹事長)さんが妥協した。佐藤さんも不満なんだが、(沖縄返還協定が国会を)通ればよいと。大きな政策的失敗だった。

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 それでも、非核三原則は71年11月に国会決議された。決議の正式名称は「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する衆議院決議」。時は沖縄返還協定を審議する沖縄国会。自民党総裁として4選を果たした佐藤首相は、69年11月のニクソン米大統領との日米首脳会談で合意した沖縄返還の「核抜き・本土並み」を花道に、長期政権の幕引きに入ろうとしていた。

 ところが、自民党は71年11月17日の衆院特別委で、協定を抜き打ちで強行採決した。同24日の非核三原則決議は、その正式名称が示すとおり、この混乱を収拾し、野党側を本会議に出席させるための材料だった。同日、沖縄返還協定も衆院本会議で可決され、約半年後の72年6月、佐藤首相は引退を表明する。

決議は後段で「沖縄返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきだ」としている。だが、69年11月の日米首脳会談では、有事の際、沖縄に核を持ち込む密約が首脳間で結ばれていた。

 密約に密約を重ねた日米外交の行き着いた先が、国会決議を巡る動きに表れている。木村氏は政党間の駆け引きによる妥協と証言したが、密約である以上、野党の建前での「非核」「核抜き」の要求を否定することはできなかったとも言える。

 木村氏は寄港と沖縄の二つの密約自体を知っていたかは明言していないが、寄港を巡る問題をよく認識し、沖縄密約では佐藤元首相の密使だった若泉敬氏に費用面での手当てをしたことを認めている。木村氏の真の懸念は、密約と政府の公式政策の矛盾が抜き差しならなくなることだったと見られる。

 日本政府が米国の日本に対する核の傘に正面から向き合おうとせず、「非核」や「核抜き」という聞こえの良い言葉を前面に出して内政を乗り切ろうとしたことが、日米関係に次第にあいまいな雲をかけていく。

◇米に明言させない、引き継ぎ受けた−−竹中義男・元陸将

 核兵器について日本が米側に「過去、現在、将来において核を持ち込む」であろうことを明言させるような照会はしない。そういう引き継ぎを先任者から受けた。言い換えれば、何とか米側に明らかにさせないように、日本がすること。

 ラロック事件でも、米国に真実を言わせないで、国内の議論を沈静させなければいけなかった。米側は(持ち込んでいないという)日本側の態度について非公式の場では「常識はずれのことにおつきあいはごめんだ」と言っていた。

74年10月、「日本を含め寄港時に米艦船は核を搭載している」というラロック元米海軍提督の証言が報じられ、日本政府は大きくよろめいた。ラロック氏は核装備可能なミサイル巡洋艦の艦長だったこともある。寄港する度に核兵器を外すことはしないという証言には強い説得力があった。「どこかで外してくるというばかげたことを信じるものはいない。軍事力としてなりたたない。それを証明したのがラロックだ」(81年の石橋政嗣・元社会党委員長談)

 「米政府から何の事前連絡もなく、そういったことはないと考えている。またあらためて米政府に核は持ち込んでいないとの確認を求める必要はないと思う」−−。当時の木村俊夫外相は、証言が明らかになった74年10月6日夜、記者団にこう述べて必死にかわした。竹中氏が指摘している「日本から照会しない」という日本政府の「暗黙の対処方針」に沿った対応だった。

 「ラロック証言で非常に不利な立場に追い込まれた。伊勢神宮に行った時に証言が飛び出し、同行記者にすぐ(三重県)桑名でやられちゃったんです。重い気持ちで東京に帰ってきた。もう嫌だったですね」(81年の木村氏談)と語っている。

 米国人に指摘されるまでもなく、日本国民をはじめ誰もが分かる「常識はずれ」が日米間に困惑を広げた。当時、毎日新聞ワシントン特派員だった斎藤明氏は、報道の翌々日(現地時間10月8日夜)、安川壮駐米大使がわずか20分の会談のためにインガソル国務副長官を自宅まで「夜回り」した事実をメモに残し、日本政府の動揺ぶりを生々しく記録している。

 この会談の結果、米側は「一私人によってなされたもので、米政府の見解をなんら代表しうるものではないことはすでに述べられている通りである」とする政府見解を発表した。心中、その不条理をよく知っていた木村外相は、当時の記者会見で「今回、米国は何らかの必要があってこうしたもの(政府見解)を出さなければならないのかと考えたかと思われるが……」と微妙な発言をしている。

 密約の実質が、すでに日本政府のために「国内の議論を沈静化させるため」だけのものになっていることが、あらわになり始めていた。

◇「米国を信頼している」という(日本政府の)答えに、私は誠に当惑させられた−−ライシャワー元駐日大使

 私が駐日大使の時代に、この問題が日本の国会で取り上げられ、日本政府が(核兵器積載米艦船の)通過は許されないという、協定の改ざんとなる解釈を受け入れるといい、「しかし、米国を信頼している」という時、私は誠に当惑させられたものでした。つまり、そういう日本政府の答えは「米国側がごまかしをしている」というように見せることになるわけです。だから、私は外相に会って「そのような形で答弁しないでください」とお願いしたくらいなのです。(ライシャワー発言を報じた81年5月18日付の本紙朝刊から)

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 ライシャワー氏が述べている外相との会談は、後に西南女学院大学の菅英輝教授が米国立公文書館で発見した、駐日米大使から米国務長官あての公電で裏付けられている。会談は1963年4月4日、ライシャワー氏が当時の大平正芳外相を大使公邸に招いた極秘の朝食会として行われた。両氏はその場で、1960年1月に結ばれた核搭載艦船の日本寄港を認める密約の本文を再確認している。

 60年安保改定交渉での密約を明らかに知っていたライシャワー氏が、その意味が知られていなかった20年近く昔の「大平・ライシャワー会談」にたびたび言及しているのは、「日米政府間では明瞭(めいりょう)な問題を、なんとかあいまいにしようとする政策は日米関係に悪影響を与える」というメッセージだったに違いない。斎藤明氏は、当時米政府の対日政策立案者の間で「ライシャワー大使の申し入れに大平外相が『ハーイ』と答えた」というエピソードが流布していたと振り返っている。

ライシャワー氏はインタビューで、ラロック証言について「えらく早くしぼんでしまいましたね。その意味するところは、日本では『よくよく考えてみると、それはお笑いだ』と世間が思っている−−と少なくとも私は了解しました」と語っている。

 米政府内で「ハーイ」のエピソードが軽い笑いとともに語られ、日本の世間は「お笑いだ」と思っている。16歳まで日本で育った知日派元大使の懸念はどこにあったのか。米艦船が核兵器を積載したまま寄港しているかどうかは、少なくともライシャワー氏にとってはすでに本質的な関心事ではなかったはずだ。

 ワシントンの知日派の間に、ライシャワーハーバード大教授(元駐日大使)が、日本への核持ち込みの真相を公にするかどうか真剣に考えているらしい、とのうわさがボストンから風の便りのように流れてきた。この点をあいまいにしておくことは日米間に相互不信を増幅するだけ、との日米関係の将来への、教授の深い憂慮があったためであろう。(81年5月18日付本紙朝刊から)

 米政府は密約にかかわる多くの公文書を公開し、核搭載艦船がかつて日本に寄港していたことは「常識」になったが、日本政府は寄港密約の存在自体を否定し続けている。あいまいさが戦略的に有効であるより、相互不信を増幅すると懸念したライシャワー氏の真意を、日本政府は今なお受け止めようとしていない。

ライシャワー元駐日大使の証言

 ライシャワー元駐日大使は毎日新聞のインタビューで、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港が日米の合意のもとに容認されていたと明かし、1981年5月18日に報道された。日本政府は非核三原則の「持ち込ませず」との関連について「核を搭載した艦船の領海通過、寄港も含めて核の持ち込みはすべて事前協議の対象」(当時の宮沢喜一官房長官)として、事前協議が行われていない以上、核兵器は持ち込まれていないとの見解を押し通した。この報道で、毎日新聞は新聞協会賞を受賞した。

 ◆核4政策

核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず(非核三原則

核兵器の廃絶を念願するが、当面は実行可能な核軍縮にわれわれは力を注ぐ

・通常兵器による侵略に対しては自主防衛の力を堅持。国際的な核の脅威に対する我が国の安全保障は日米安全保障条約に基づく米国の核抑止力に依存する

・核エネルギーの平和利用は最重点国策とする

 (68年1月30日、衆院本会議での佐藤元首相の答弁)

 ◆ラロック元提督の証言

 1974年9月に米議会原子力合同委員会軍事利用小委員会(サイミントン委員会)が行った公聴会で、ジーン・ラロック元提督(退役海軍少将)が「私の経験では、核兵器搭載能力を持つすべての米国の艦艇は核兵器を搭載している。それらの艦艇が日本など他の国の港に入るとき、核兵器を外すことはない」と証言し、同年10月6日に公表された。