記事:関係者が語る『中日平和友好条約』締結の舞台裏

天高く空気がすがすがしい秋に、中日両国の専門家、学者たちは北京に集い、『中日平和友好条約』締結30周年を記念し、そして30年来の中日関係の経験と教訓について真剣に総括を行い、両国関係のすばらしい未来を実現するよい方法を共に討議した。

宮本雄二日本国駐中国大使はシンポジウムでの挨拶の中で、日中関係は結局のところ、両国国民からの支持の多い少ないによって決まるものであり、現在最も必要なのは、両国の知識人の間の次元の高い、深く突っ込んだ相互理解と認識であると語った。

1978年10月23日、中日関係は新しい段階に入る

1978年10月23日は中日関係史における重要な日であった。

この日の午前、『中日平和友好条約批准書』交換式が東京の首相官邸で催された。元中国国務院副総理の訒小平氏と元日本首相の福田赳夫氏が交換式に出席した。元中国外交部部長の黄華氏と元日本外相の園田直氏がそれぞれ自国を代表して『中日平和友好条約批准書』に署名した。それ以後、『中日平和友好条約』は発効した。

条約の締結はかつて「覇権主義反対」の条項で阻まれた

中日両国の国交回復から平和友好条約の締結までの過程全体はまるまる6年間であった。

1972年に中日関係の正常化を実現した後、人々は、『中日共同声明』の規定によれば、それに続いてすぐ一日も早く中日平和友好条約の締結を考えるべきであるとあまねく思っていた。特に1973年の中日航空協定の調印の後、両国関係のホットスポットは次第に平和友好条約の締結へと転じた。

劉徳有中華日本学会名誉会長・中国中日関係史学会名誉会長は、前世紀70年代に新華社記者として日本に常駐し、条約締結についての交渉過程のいくつかの細い点を知る機会に恵まれた。劉徳有氏によると、日本側は条約の中に「覇権主義反対」の条項を盛り込むことを拒み、それは条約締結を阻む力の1つであった。そして日本の政界筋が意識的にメディアにこのことをリークし、客観的にも強い反対の雰囲気がかもし出された。

1974年、日本の田中内閣がつぶれ、中国に対し比較的に友好的な姿勢であった三木武夫氏が続いて首相に就任し、自民党副総裁の椎名悦三郎氏は「親台湾派」であり、その上三木内閣の閣僚の中では「親台湾派」、「親韓国派」が多数を占めていた。そのため、三木武夫氏はたとえ日中平和友好条約を締結する考えがあったとしても、反対派を説得するしようがなく、氏が何よりもまず考えたのはどのようにこれらの反対派の支持を得て政権を維持するのかということであった。これに対し、日本のメディアはかつて「言うことを実行せず、いつも口だけだ」と氏を遠慮なく批判した。

旧ソ連大使が圧力をかけ、日本のある高官が障害を設ける

旧ソ連からの圧力も重要な外的要因であった。その時、旧ソ連は三木内閣発足の機に乗じて、しきりに日本に圧力をかけ、日本が中国との間で「覇権主義反対」条項のある平和友好条約を締結することを妨害した。旧ソ連側は、いわゆる「覇権主義反対」はソ連に対するものだと見ていた。

1975年2月3日、旧ソ連駐日本国大使のトロクヨノフスキ氏は東京ですすんで自民党副総裁の椎名悦三郎氏と会見し、約一時間半にわたって会談した。

翌日、日本の『毎日新聞』紙は、旧ソ連大使は椎名氏に「日本が締結しようとしている日中平和友好条約はソ連に悪い影響を及ぼすことになる」と語った、と伝えた。

この会談はもともと内々で行われたものであり、もし椎名氏が外部へリークしなかったならば、外部のものはすぐ内情を知ることはありえなかった。劉徳有氏は、椎名氏が意識的に会談の内容を『毎日新聞』紙の記者にリークした目的は、日本である種の雰囲気をつくり、それによって人々に、旧ソ連の強烈な反対を受ける日中平和友好条約を締結する必要はないと思わせることにあったと見ている。

転機は福田赳夫氏が首相に就任した後に現れた

1974年2月14日、中国駐日本国大使の陳楚氏と日本国外相の東郷氏が第3回の準備会談を行った時、日本側は条約の中に「覇権主義反対」条項を盛り込むことに反対した。

その後、三木内閣は「覇権主義反対」条項を盛り込むことに反対する問題を置いたままますます遠くへつっ走っていき、条約締結の誠意がまったくないことをはっきりと示し、そしてまた条約締結に関する交渉を止めた責任を中国側に転嫁しようと企んだ。この姿勢は日本でも大衆の支持を得られなかった。日本の全国各地では一日も早く日中平和友好条約を締結することを求める高まりが巻き起こった。

1976年12月、三木首相は辞職した。福田赳夫氏は翌年の年初に首相に就任し、「全方位外交」の実行を打ち出した。日中平和友好条約を締結する面で、福田氏は、「覇権主義反対条項」が日本憲法の基本的な精神にかないさえすれば、締結に賛成するとして、積極的な姿勢を見せた。訒小平氏は「1秒で問題を解決することができる」と語った。

元中国駐日本国大使徐敦信氏は自ら経験した条約締結前後の経緯を語った。

福田赳夫氏が日本首相に就任した後、時代の流れに順応し、日中締約の問題に積極的に対応したいと思う意を表明した。

この時はまさに中国の政治に激変が生じた時でもあった。1976年10月、「4人組」(江青張春橋王洪文姚文元)が粉砕された。1977年7月、訒小平氏が再度政治の舞台に現れ、中日友好条約締約の交渉の仕事を自ら指導し、数多くの目的性のある効果的な仕事をし、特に「覇権主義反対条項」をめぐって福田氏が決意を固めることを促す面で、多くのすばらしい行動をとった。

その時、訒小平氏は、「覇権主義反対」条項の核心は事実上、覇権を謀らないとともに、それに反対するというひと言であり、つまり締約当事者の双方がまず自らを制約して覇権を謀らず、同時に他のものの覇権を謀ることにも反対することであると述べた。

徐敦信氏は、国際関係の準則と国連憲章の主旨から言って、この言葉に非難の余地がなく、それは誰をも怒らせず、誰にも対応せず、覇権を謀ろうとしない人は大げさに騒ぐ必要はないが、覇権を実行しようとする人はむろん不快感をもったと語った。

その時、福田首相にはいくつかの気がかりがあった。福田首相は、中国側が「日本はすべての国と平和・友好的に付き合いたいと思っている」ことを理解してくれることを願うよう申し出た。これに対し、訒小平氏は適時に次のように答えた。ある人が横暴なふるまいをし、覇権を実行しているのに、まさかそれに対し平和・友好的でなければならないのか?福田首相は私達の古い友人ではなく、これまでの中国との関係は私達の相互間でいずれもよく知っていたが、私達はそれに対し別に気にしない。福田首相元田中角栄首相、元大平正芳首相と同じように私達の友人になれることを望む。首相の仕事は多忙であるが、実は、この事は1秒だけで解決できる問題であり、つまり2つの字――「締約」である。

「1秒」という談話は急速に日本に伝わり、大きな反響を引き起こした。徐敦信氏の分析では、それは事実上2つの情報を伝えるもので、1、中国側は福田首相に対し前向きの姿勢をとっていたこと、2、首相が「1秒」の決断を行うことを待っていたことであった。それは福田首相本人にとって励ましでもあれば鞭撻でもあったが、一日も早く締約することを積極的に主張していた友人たちにとっては大きな励ましであった。

「こんなに速いのですか!」

1978年7月21日から8月12日にかけて、中日両国の外交・外務当局は正式に交渉を再開した。22日間に16回の会談を行い、双方の間では時には白兵戦のような舌戦もあったが、中国側の代表団は訒小平氏の「合意に達することに努めなければならない」という指示の主旨にもとづいて、原則性と融通性の結合に非常に気をつけた。

交渉は肝心な時点に入り、福田首相は園田外相の訪中を決定した。

8月6日夜、徐敦信氏は事務室で残業していた。20時45分に、日本国駐中国大使館の堂之脇公使が徐敦信氏に電話をかけ、園田外相が中国を訪れ、両国外相間の会談を行うことを願うと語った。

これは1つの積極的なシグナルであり、徐敦信氏は直ちに責任者の認可のもとで、直接電話で訒小平氏の弁公室に報告した。電話に出た秘書もそれが重要な情報であることを意識し、電話を切らないで、直ちに口頭で訒小平氏に報告し、すぐ回答を得た――「訪中を歓迎する」。

その夜の9時15分、徐敦信氏は堂之脇公使に電話をかけ、この回答を公使に知らせた。相手側は「こんなに速いのですか!」と喜ぶとともに驚いた。

園田外相の訪中――交渉が成功しなければ「切腹する」

園田外相は北京に到着した後、黄華外交部長と2ラウンドの会談を行い、8月9日に条約草案について合意に達した。

聞くところによると、園田外相が北京に来る時、日本の右翼は外相を殺すとおどしたが、外相は少しも恐れる様子はなく、そしてもし今度の交渉が成功しなければ「切腹し」、決して生きて日本に帰ることはないと公に表明した。

1978年8月12日、『中日平和友好条約』が北京の人民大会堂で調印された。中国の全国人民代表大会と日本国国会でそれぞれ条約の審議を可決した後、ついに訒小平氏と福田赳夫氏が共に条約に調印する歴史的1幕となった。

「チャイナネット」2008年10月20日
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2008-10/20/content_16636611_4.htm