講和直後の大使ポストに関する考察

 終戦後、海外の大使館の多くが閉鎖に追い込まれたことで、外務省は多くの官僚を解雇した。しかし、1952年4月に対日講和条約の発効が迫ると、新たに海外の大・公使館の開設に伴って公館長に充てる外交官を起用する必要に迫られた。職業外交官の不足を補うために吉田茂首相は、財界人からの起用を模索する。吉田は当初、駐米大使に白州次郎東北電力会長を考えたが、結局、戦後初の駐米大使には日銀総裁を務めた新木栄吉を起用した。だが、財界人の起用については給与や待遇面の問題もあり、結局は外交官OBの復職が検討された。以下は当時の新聞記事。

 岡崎、井口両氏の間で大使に起用することに意見一致している現役組は井口次官と西村条約局長の二人しかいないといわれる。大正年代の外務省採用で現役に残っているのは井上孝治郎(ローマ在外事務所長)、結城司郎次(ストックホルム事務所長)の両氏だけだが、この両氏以下の年次の採用者はその経歴などからまだ大使になるのには難点があるとされている。こうした関係もあって、元大公使の復帰が考慮され、岡崎、井口両氏は六十歳以下を基準に自薦、他薦のうちから日高信六郎(元駐伊大使)、上村伸一(元駐満公使)それに現在外務省顧問で元外務次官、仏印大使の松本俊一の諸氏の起用に意見が一致したといわれる。前次官太田一郎氏については原則的には話し合いがついているようだが、起用の時期は多少ずれるという見方がある。このほか、外交畑出身者以外のものを起用することもうわさにのぼっているが、外務省顧問津島寿一氏(元蔵相)のほかはまだ問題となっていないといわれる。

朝日新聞』1952年3月3日。

なお記事中に登場する外交官の配属年次は以下の通りである。
日高信六郎 大正8年(1919年)
上村伸一 大正10年(1921年)
井口貞夫外務次官 大正11年(1922年)
西村熊雄条約局長 大正12年(1923年)
太田一郎前外務次官 大正13年(1924年)
井上孝治郎 大正14年(1925年)
結城司郎次 昭和2年(高等文官試験合格大正15年)(1927年)

 当時、事務方最高位の次官であった井口貞夫が53歳であることから見ても、占領期という空白によって組織が一挙に若返った反面、占領期が終わって見れば、大使ポストに必要な世代が外務省からそっくり抜けていた点は興味深い(他官庁でも公職追放があったので似たような状況であったろう。Cf 池田勇人の大蔵次官就任)。吉田が財界人を大使に起用したことは経済外交の現れと見ることもできるが、外務省が一時的に人材を供給できなかった要因も大きかったといえよう。財界人大使は、その後結局定着せず、職業外交官が主要国大使を占める慣習は現在に至る。なお、余談ながら、占領期に大公使館の代替機能を果たした在外事務所長は比較的若い人材があてられていた。例えば、ワシントン事務所長の武内龍次、台北事務所長の木村四郎七などは、1960年代になってそれぞれ駐米大使、駐華大使のポストについている。