Qiang Zhai, China & The Vietnam Wars, Ch7

Qiang Zhai, China & The Vietnam Wars, 1950-1975, Chapel Hill; The University of North Carolina Press, 2000, Ch7, 157-175

China and the Vietnam Wars, 1950-1975 (The New Cold War History)

1965年、ヴェトナム戦争が本格化するなかで、ソ連、英国、フランス、印度、ポーランドといった第三国は度々、米中双方に停戦を働きかけた。米国は1964年末からの翌年にかけて、公民権運動の高まりと連動して反戦運動が巻き起こりつつあった。ジョンソンは、1965年3月声明を発表して、平和のために自分はどこへでも赴くと述べたが、レトリックの域を出るものではなかった。英国は特使を中国に派遣するが、中国側はこれを拒絶した。4月7日、ジョンソンはジョンズホプキンズ大学の講演で、無条件でのハノイとの和平を呼びかけるが、北ヴェトナムのファンバンドンは、米地上軍の撤退、南北ベトナムの問題を国内問題からなる四条件を逆に提示した。
 5月、ジョンソンは爆撃を一時停止し、英国の新提案を支持した。英国は英連邦会議においてガーナのエンクルマを特使に選び、中国に派遣して和平を呼びかけさせた。この狙いは、アジア・アフリカ諸国からの影響力行使によって米に対する強い敵対姿勢を続ける中国を説得しようとするものであった。しかし中国はこうした提案を受けいることなく、翌7月のフランスのインドシナ中立化構想も拒絶した。
 中国がヴェトナム和平に消極的であった理由は以下の三点が指摘できる。第一に、米を泥沼に引きずり込むヴェトナムの戦いを、第三世界解放闘争の一貫と考える毛沢東の革命戦略。第二、ソ連の東南アジア浸透を抑制したいという狙い、そして、第三に、文化大革命における国内動員の根拠としてである。
 しかし、こうした戦略的観点から、徹底抗戦を主張する中国と北ヴェトナムとの間では意見の違いも徐々にあらわれはじめた。北ヴェトナムは、米の和平提案を、戦闘で疲弊した戦力を蓄えるために不可欠と考えていた。元来圧倒的な国力差がある米国との戦争は、結局のところ落としどころを探る必要もあった。しかし、中国側はこうした北ヴェトナムの姿勢を、米につけいられる可能性があると捉えていた、毛沢東はヴェトナムに対して最終的な勝利までたゆまぬ革命闘争を続けることを強く主張した。こうした戦略をめぐっては、北ヴェトナム内部においても、意見対立があった。
 しかし、こうした中国の主張にも関わらず、1967年に入ると米越双方は当初の和平条件を緩和し歩み寄りを見せ始めた。北ヴェトナムは、米軍の撤退ではなく爆撃の無条件停止を求め、米側も、北ヴェトナムの南への浸透ではなく追加増援を行わないことを求めるようになった。1968年3月31日、ジョンソン大統領が北緯20度線以北の爆撃停止と次期大統領選不出馬を決定すると、4月3日、北ヴェトナムは米国との対話を行う意志があることを明らかにした。この決定は、中国側はおろか、当時北京で入院していたホーチミンにも内密に行われた。
 5月13日にパリで開始された和平会議は、早速に暗礁に乗り上げた。ハノイは実質的な条件を米に示すことがなかったからである。ハノイの狙いは、米の爆撃を遅らせて米国内の反戦運動を煽ることにあった。だが、こうした姿勢を、ヴェトナムはソ連に罠にはまっていえるとして、中国は批判し続けた。
 だが、こうした中国の姿勢にも1968年後半から徐々に変化が見えはじめる。中国は68年5月から10月まで国内に対してパリ和平協定の存在を隠し続けた。しかし11月国内に始めてこれを報道した。中国は徐々にソ連からの北方の圧力に強い脅威を覚え始めていた。ソ連の国境侵犯の拡大、ブレジネフの制限主権論の主張とチェコ動乱の粉砕は、中国にとって、ソ連が明らかに米国以上の脅威として映り始めたことを示していた。
 1968年から71年までの間、中国はパリの和平交渉に不介入の姿勢を示し続けた。ソ連が積極的にこれに関わろうとしたことが、一層中国を沈黙させたといえる。そして、パリ交渉の開始は、ハノイと北京との距離を確実に広げることとなったのである。
 結論からいえば、北京のヴェトナム和平に対する頑強な姿勢は、毛沢東が主張する二つの中間地帯論にある第三国の不信をかった。毛のヴェトナムへの固執は、次第に彼の連合戦線構想自体を切り崩す結果となったのである。そしてソ連の中国への圧力の増大は、毛沢東にとって、米国よりもソ連の方が中国への脅威であるという認識を抱かせたのである。