Robert Accinelli, ”In Pursuit of a Modus Vivendi, 9-55

1971年の米中接近と台湾問題

Robert Accinelli, "In Pursuit of a Modus Vivendi: The Taiwan Issu and Sino-American Rapprochement, 1969-1972," in Normalization of U.S.-China Relations: International History, eds. William C. Kirby, Robert S. Ross, and Gong Li(Cambridge, MA: Harvard University Press, 2005), 9-55, (注釈289-298).

Normalization of U.S.-China Relations: An International History (Harvard East Asian Monographs)

 冷戦を時期的に二分するならば、その折り返し点は、間違いなく1971年の米中接近である。ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官による中国の電撃訪問は、1960年代から徐々に進んでいた東西緊張緩和を決定づけると同時に、冷戦の多極化の幕開けを象徴する出来事であった。
 しかしながら、こうしたインパクトにも関わらず、この時期の米中交渉において何が議論されたについては、近年になるまで、当事者であるキッシンジャー回顧録に多くを依拠してきた。一次史料に基づいた米中接近の研究が本格的に開始されたのは、30年ルールを経て、当時の記録が公開された2000年代に入ってからである。
 本論文は、新たに公開された文書に基づき、1969年のニクソン政権の成立から72年の大統領訪中まで、台湾問題をめぐり、米中両国がいかなる議論を交わしたかを明らかにしている。
 アクシネリによれば、従来、キッシンジャー回顧録のなかで台湾問題を過小評価してきたことに対して、近年公開された公文書は台湾問題が米中交渉の中核に位置していたと主張する。また、キッシンジャーが、国務省の保守的な方法を嫌っていたと回顧しているにも関わらず、政権初頭は、ワルシャワでの米中大使級協議を通じて、台湾問題を棚上げにして中国との関係改善を図ろうとする国務省の案に対して、ニクソンキッシンジャーは共に同意していたと論じている。
 ニクソンキッシンジャーが中国問題において主導権を握るには、1970年4月の米・南越共同軍のカンボジア侵攻によって、ワルシャワ協議が中断に追い込まれた後であった。キッシンジャーは、パキスタンルーマニアといった第三国ルートを通じて、中国との接触を図るが、台湾問題の根本的な解決を図らず棚上げした上で中国との関係確立を目指そうとする姿勢は、国務省と同様であったとアクシネリは指摘する。
 しかし、それでも中国側が米国との交渉に乗り出す効果的なメッセージの役割を果たしたのは、キッシンジャーが示した台湾からの米軍撤退の「示唆」であったのかもしれない。パキスタン・ルートを通じて、キッシンジャーが中国側との意思疎通に成功すると、キッシンジャーを中心とする大統領直轄の政策諮問機関NSCは、国務省を蚊帳の外において、本格的に中国側との本格的な交渉準備にとりかかった。台湾問題を中心に協議を望む中国側に対して、米国側は、まず直接交渉を行うことを目的とし、台湾問題を含めてより広い問題を議論したいという立場を貫いた。
 キッシンジャーは、中国側が台湾問題の根本的な解決を米国から引き出そうとはしていないと考えており、米軍の撤退に的を絞ってくると予想していた。だが、1971年7月の北京での交渉において、周恩来の台湾をめぐる姿勢は予想以上に強いものであった。周恩来は、訪中したキッシンジャーに対して、外交関係の樹立に際して台湾問題は"crucial"とする姿勢を崩さなかったのである。結局、両者の長い議論の結果、キッシンジャーは外交関係樹立前の訪中を認めさせ、代わりに周恩来に政権二期目の外交関係の樹立を約束したのである。
 ニクソンショック国府や日本といったアジア諸国に大きな衝撃を与えた。米国は国府の動揺を防ぐためにも表面上、米国の国府へのコミットメントがこれまで通りであることを強調したが他方で、同年10月の二度目のキッシンジャー訪中では、来るべき大統領訪中に備えて、台湾問題について米中間で合意に至るべく折衝が続けられた。キッシンジャーは、中国側の主張する台湾は中国の一部であることを直接認めることを避ける一方で、海峡を挟んだ中国人による「一つの中国」の立場に、米国は「挑戦しない」と、可能な限り曖昧な形での合意を中国側に譲歩を獲得した。
 しかしながら、翌年のニクソン訪中においても、台湾問題は依然として中心的議題であり続けた。ニクソンは、中国側の五原則に同意し、政権中の米中国交の樹立と、将来の米軍の台湾撤退のタイムテーブルまで示した。だが、同時にこの米中交渉に密約があってはならないとして、コミュニケの表現に可能な限り余地を設けることを要求した。米国政府は、中国の体面を保つと同時に国府の急速な瓦解を防ぐためにも、可能な限り曖昧な形地でコミュニケを作成することを望んでいた。結局、北京での交渉において台湾問題をめぐるコミュニケの文面作成は、もっとも時間を割かれた議論となった。最終的に作成された上海コミュニケは、将来的な「一つの中国」を示唆したものとなったが、米国は密約を中国側に提示することなく、北京との合意に達したのである。
 このように米中接近の過程において、キッシンジャー回顧録とは異なり、台湾問題は米中間の最重要課題であった。アクシネリの述べるように、1969年から1972年にかけての交渉において、米中両国は、台湾問題に対する「不同意の合意」によって、二十年に及ぶ敵対関係に終止符を打った。
 ニクソンキッシンジャーは、北京政府に、台湾からの米軍の撤退と、政権二期目の米中国交正常化を約束したが、これは表面上の姿勢である台湾の継続的なコミットとはいくぶんの矛盾を孕むものであった。だが、ニクソンは1974年のウォーターゲート事件によって辞任し、結局この約束は果たされることはなかったのである。