1940年の敗北:フランスはなぜドイツに敗れたのか

1940年の敗北:フランスはなぜドイツに敗れたのか―ポストモダン対リアリズム

Douglas Porch, "Millitary 'Culture' and the Fall of France in 1940," International Security, 24-4(Spring 2000), 157-180

Elizabeth Kier, Imaging War: French and British Millitary Doctrine between the Wars(Princeton, NJ: Princeton University Press, 1997)

Imagining War: French and British Military Doctrine Between the Wars (Princeton Studies in International History and Politics)

 1940年5月、ナチスドイツのフランス侵攻作戦は、わずか一ヶ月あまりでのフランスの敗北に終わった。フランスが、なぜドイツ軍に対してかくもあっさりと敗北したのかについては、古今多くの歴史家の議論の的となってきた。

 フランス敗北を論じた古典的な議論として、歴史家マルク・ブロックは、フランスの敗北を「神の裁き」と論じ、フランス国内の厭戦気分と政治的退廃が、決定的な敗北につながったと論じた。
 しかし、1970年代以降、主にアングロサクソン系歴史家によって、フランスの政策決定、軍備や戦争計画の詳細な分析が進められるとこうした古典的な見方には一定の修正がなされた。彼らは、フランスは当時、十分な軍備と戦争計画を有しており、フランスの戦略が決して誤っていたわけではないことを明らかにしたのである。それでは、フランスはなぜ敗れたのか。1980年代以降、軍事史家や政治学者は、軍事組織や戦術、作戦運用といった「軍事的効率性」に観点をあててその問いに答えようとしてきた。

 1997年に出版されたKireの研究Imaging Warは、こうした研究とは異なる観点から、フランスの敗北を説明しようとした。すなわち、彼女は、英仏軍の選択した軍事ドクトリンの「文化的背景」にその原因を求めたのである。
 彼女の議論は、ドイツの戦争計画が「攻撃的ドクトリン」であり、フランスの戦争計画が「防御的ドクトリン」であったことが、戦争の勝敗をわけたという点に集約される。そして、フランス軍(またはイギリス軍)の組織的文化が、「攻撃的ドクトリン」をとることを不可能にしていたというのである。具体的には、彼女は、1928年の徴兵期間の短縮が、フランス軍に一体性を失わせたとして、フランス軍の高官に、新たな技術や戦闘形式を兵士に適応させることを不可能と考えさせるようになったとする。そして、こうした思考が、自然とフランス軍を「防衛的ドクトリン」に向かわせたというのである。
 彼女は、同様の説明をフランスと共に戦った英軍にも適用する。彼女は、英軍の組織は時代遅れの階級制が残存しており、英陸軍は「ジェントルマン士官」によって占められていたと述べる。そして、ブルジョア士官は、フランスと同じく新たな技術を採用しても、それを旧来の「防衛的ドクトリン」にあてはめるだけであり、リデル・ハートや、フラーが主張した先見的な考えが受け入れられる文化がなかったと述べるのである。
 このように彼女は、英仏両軍の文化が、両軍を「防衛的ドクトリン」をとらせることになったと述べ、これが戦争の勝敗に決定的な影響を与えたと結論づけた。

 しかし説明を文化に求める彼女の議論に対して、古典的リアリストの立場から、Porchは厳しい批判を展開する。
 Porchの批判は、第一に、戦争の勝敗を分ける決定的要因となったのは「ドクトリン」ではなく「戦略」の結果であるとする。Porchは、Kierはこの二つを混同した上に、フランス戦における軍事ドクトリンのインパクトを誇張しすぎているという点である。事実、彼は、反論として、アフリカのエルアラメインの戦いで、モンゴメリー率いる英軍は、歩兵部隊を砲兵に支援させる古典的な、(Kierの主張する)「防衛的ドクトリン」によってロンメルのアフリカ軍団を退けており、ドクトリンの違いは決定的な勝敗の要因にならないと述べる。Porchは、フランスが敗れたのはドクトリンそのものの間違いではなく、戦略を誤ったがために、ドクトリンを効果的に遂行できなかったからだと主張する。

 また、Porchは「ドクトリン」は、軍事組織が戦闘を行うための手段であり、戦闘において適用する方法や手続きであると定義する一方で、「戦略」とは、国家が戦争において、政治的目的を達成するために、どのようにその力を組織するかという方法であると述べる。彼は、その意味で、ドクトリンには本来「防衛的」も「攻撃的」もなく、あるのは防衛的戦略と攻撃的戦略だけであると主張するのである。具体的には、彼はドイツ軍が再軍備の過程において、鉄道や自動車化部隊を組み合わせた機動的な部隊を編成した理由は、本来少ない軍備で国家を守るための防衛的戦略に基づいていた。しかしヒトラーは、これを戦略目標の達成のために攻撃的に用いるように転換したのである。

 さらに、Porchは、組織の文化を決定づけた徴兵制度に対する議論についても厳しい指摘をしている。彼女はフランス軍の徴兵期間短縮が、「防衛的ドクトリン」を決定づけたと述べるが、Porchは、Kierは徴兵制度によって集められた兵士の練度の低さを無視しているとし、こうした事情は実はドイツも同じであると主張する。Porchによれば、実際、ドイツでも急速に増加した新兵の教育には頭を悩ませており、フランス戦の際には、精鋭部隊のみで固めた一級師団のみがフランスへ侵攻し、新兵を中心とした二級師団は、もっぱら国内の後方に配置されていた事実を指摘している。つまり徴兵制の問題は、ドクトリンを決定づけるほどのインパクトはなく、ここでも勝敗を分けたのは師団の運用の問題であったと、彼は主張するのである。

 結局、Porchは、フランスの敗北を文化的要因に求めたKierの研究を、ブロック以来の古典的説明である「神の裁き」の域を出るものではないと述べる。フランスにおける戦争はドクトリンの違いではなく、ドクトリンを運用する上で間違いを犯さなかった方が勝利したとして、文化的要因からフランス敗北の要因を説明しようとしたKierに対して、古典的リアリズムの立場から反駁したのである。