Robert D. Schulzinger, The Johnson Administration, China, and th

Robert D. Schulzinger, The Johnson Administration, China, and the Vietnam War, in Robert S. Ross and Jiang Changbin ed. Re-examining the Cold War: U.S.-China diplomacy, 1954-1973, Cambridge, M.A.: Harvard University Press, 2001, 238-261

Re-examining the Cold War: U.S.-China Diplomacy, 1954-1973 (Harvard East Asian Monographs)


ジョンソン政権の中国政策は、ヴェトナム戦争との強い関連があり、それゆえに複雑なものであった。米国政府は中国の東南アジアへの浸透を阻止したいと考えると同時に、インドシナでの朝鮮戦争のような米中直接対決はなんとしてでも回避せねばならないと考えていた。結論からいえば米国は中国との全面対決を回避することはできたが、そのことはベトナム政策の成功にはつながらなかった。
 ジョンソン政権の中国政策は次の時期区分にして考えることできる。第一は、1963年から65年までアメリカは中国を東南アジアにおける最大の脅威と考えていた。1966年に文化大革命が始まると当初、アメリカは中国は予測不可能になったとしてより危険視した。しかし、1967年以降、中国は米国とインドシナで全面対決する意志はないと考え、それほど危険でないという認識を持ち始めた。概して1967年まで米国は中国の危険性を過大評価していた。
 1964年から65年にかけてジョンソン政権は、南ヴェトナムの士気をいかに保つかを考えていた。主流派は、マクナマラ国防長官のようにベトナムへの直接介入は不可欠と考えていたが、マンスフィールド上院議員のように直接介入に反対し、東南アジア中立化を目指すべきとする意見もあった。南ベトナムにおけるベトコンの影響力は徐々に拡大しており、1964年6月、CIAの報告書は、DRVの勝利は中国に自信を与え、国際共産主義運動の指導的立場としての威信を高らしめることになると述べていた。8月トンキン湾事件が発生した当初、米国は中国の反応を注視していた。CIAは報復の空爆北ベトナムに行っても中国の介入を招くことはないと考えてたが、実際に中国は戦争準備を開始し、北ヴェトナムへの援助を増強することを決定した。
 米国政府内ではこの時期、ヴェトナム介入を決定した際のシミュレーションを行ったが、結論からいえば中国は国土防衛を第一に考えており、中国を空爆したり、DRVを完全に崩壊させたりしない限り中国は参戦してこないという結論づけられた。ジョンソン大統領は北爆がなおも中国との全面対決を招くとの慎重な姿勢をとっていたが、実際このシミュレーションの通り、中国側は劉少奇が北ヴェトナムに義勇兵パイロットを送ることが精一杯と述べたように、直接対決を行う意図はなく、米国が北ヴェトナムに直接侵攻するまで地上戦は行わないつもりであった。
 CIAのマッコーンは、中国の貧弱な空軍力では空からの攻撃はありえないとして、地上戦も実際に発生するか不確定であると考えていた。中国国境を避けながら徐々に北にあがっていく方法によって空爆を行うことが決定された。
 ローリングサンダー作戦はジョンソン政権内でも少数の人間が中国介入を恐れて反対していた。ボールやトンプソンは中国介入を恐れ、ハンフリー副大統領も核兵器を有している中国とは戦えないという姿勢を示した。彼はソ連は中国との同盟を守って米に圧力をかけるだろう。そうすれば米ソ戦争の悪夢になると主張した。
 しかし、アイゼンハワー元大統領はジョンソンに、それほど北爆を心配する必要はなく、必要なら核兵器にのって脅しをかければよいと述べた。またCIAは一貫して中国介入はないと予測し続けた。
 北爆が開始されると中国側はワルシャワの大使級協議の席上で米国を激しく非難した。しかしマクナマラは南でDRVとベトコンを叩いている間は中国の介入はないと考えていた。実際、1965年の段階でDRV、NFL、中ソ両国は非正規戦争によって勝利できると考えており、このことも中国の直接介入の歯止めになったと考えられる。ワルシャワ会談は米中両国にとって互いの立場を知る上で重要な役割を果たした。1966年以降、米中は互いの限界を知るようになる。米1965年は5月31日の陳毅外相の発言に着目し、中国の直接介入の閾値を設定したと考えた。周恩来も陳と同じ発言を行った。
 1965年7月、ジョンソン政権内で陸軍10万人の増派が検討された際、中国介入はないとする陸軍スタッフにジョンソンはかつて朝鮮戦争の時のマッカーサーも同じことを考えたと述べ懸念を示した。だが中国の東南アジアへの浸透、さらにはインドネシアへの波及を懸念するジョンソン政権内部の思惑もあって最終的にジョンソンは地上軍の派遣を決定する。
 1966年までに米中間は互いの限界を理解し、直接対決を回避するようになったが、その反面、戦況は手詰まりとなりつつあった。1965年末爆撃を一端中止して和平交渉が模索されたが、成果なく1966年1月31日には北ヴェトナムに交渉の意志無しとして爆撃が再開された。
 この年、文化大革命が開始すると中国への米国の脅威認識は一層増大した。中国は対外的には合理的な判断を下しているが、国内的には非合理的になっていた。ラスク国務長官もこの頃二つの考えが併存していた。第一は中国を大国と認め米との関係樹立せねばならないとする考え、第二に、核武装した中国を危険視する考えである。米国は、中国はイデオロギー的主導者としての立場を維持するためにヴェトナムからさらに退けなくなるであろうと考えていた。ライス香港総領事のように中国が外敵からの攻撃を恐れているという判断もあったが、同時にヴェトナム戦争毛沢東の国内闘争を可能にしているという見方もあった。
 中国も1966年2月には米国に攻撃を行わないようにとするうシグナルを送っていた。訪中した日本の貿易関係者に中国は米国に報復できないが日本本土には可能であるという発言を行った。結局米国の中国政策は1964年から変化がないままであった。
 1966年7月、ジョンソンはテレビ中継で中国政策の緩和を訴えた。文化的、貿易的交流を訴える。またワルシャワでも米の目的はヴェトナムの中立化であることを伝えた。1967年以降、米国は米中の危機は過ぎたと認識していた。マクナマラは戦争の現状に失望しており、文化大革命のさなかにある中国からの警告は実際には形式的であると認識するようになっていた。
 ジョンソン政権最後の年、米国は中国との関係改善を真剣に模索しはじめていた。戦争は未だ激しいものがあったが、直接対決の脅威はもはやなかった。ジョンソンは中国との関係改善の重要性を認識するようになっていたが、最後の年もヴェトナム情勢に没頭されて実際には具体的な行動に移すことはなかった。こうした米国政府の認識が変化しつつある中で中国政策はニクソン政権に引き継がれたのである。
 米国にとってヴェトナムは中国の東南アジアへの浸透を阻止する上で重要であった。しかし、ヴェトナムが泥沼化するなかでジョンソン政権は中国との関係回復を重視するようになり、ヴェトナムは当初考えたよりも重要ではなくなりつつあった。ジョンソン政権にとって、中国を封じ込めるという当初の目的は、ヴェトナムを戦い続ける十分な理由にならなくなってきていた。