記事:岸信介訪台

産経新聞2006年8月31日

≪【台北=長谷川周人】
台湾の国連加盟問題が、9月の国連総会で取り上げられるのかどうかをめぐり関心が高まっているが、台湾(中華民国)が1971年10月に国連を脱退する前の69年、すでに政権の座を降りていた岸信介元首相が極秘に訪台し、蒋介石総統に対し、台湾独立も視野に国連残留を勧めていたことが、関係者の話で明らかになった。

また、英国も台湾の国連での議席維持に向け、日本に共闘を促すなどしていたことも分かった。当時の日本と台湾をめぐる外交の舞台裏を明かす貴重な証言となりそうだ。

■1969年、極秘で蒋介石氏に直談判

産経新聞のインタビューに応じたのは、中国を逃れた国民党政権に対抗するため、日本で独立活動に加わった台湾独立建国連盟黄昭堂主席と、陳水扁政権下で総統府資政(最高顧問)を務めた独立派の長老、辜寛敏氏の2人。

辜氏は戦前の貴族院議員だった辜顕栄氏の息子で後に台湾の対中窓口機関・海峡交流基金会の理事長となった故辜振甫氏の異母兄弟。エコノミストリチャード・クー氏の実父としても知られる。

黄氏が晩年の岸氏から聞いたところによると、岸氏は国連におけるいわゆる「中国代表権問題」が揺れだした69年、秘密裏に訪台して蒋氏との直談判を決意した。

岸氏は辜氏に対し、「台湾共和国とするならそれでもいい。台湾は追い出される前に国連に残ってほしい」との思いを打ち明けたという。

中華人民共和国が国連に加盟すれば蒋政権はいずれ追放される。ならば安保理での中華民国の席を放棄し、一般の加盟国として議席を維持すべきと考えたのだろう。

蒋政権を支持する当時の日本の公式見解とは矛盾するが、中華民国という名前を変えても、国連に残ることができれば、台湾は国際的地位を確保できるからだ。

岸氏は台湾に渡り、蒋氏に対してこう切り出した。「国連安保理を離れて一般加盟国に留まってはどうか」。
だが、蒋氏の反応は厳しかった。「顔色がサッと変わり(独立の可能性を打診する)『次の言葉』を口に出してはならないと思った」。

国際社会はこの後、徐々に「中国招請」に傾いていく。台湾支持だった米国も71年7月、キッシンジャー大統領補佐官が中国を秘密訪問し、いわゆる「ニクソン・ショック」が中国の国連加盟への流れを決定的にした。だが、同時に米国は「台湾追放」には反対の立場だった。

同じころ、すでに中国を承認していたため、台湾との国交を断絶した英国も台湾を国連に留めるため、日本政府との連携に動き始めていた。

英国は台湾との関係を維持したかったのだろう。辜氏によると、7月のある晩、ジョン・ピルチャー駐日英国大使から電話で、東京・千代田区一番町の英国大使館内にある公邸に呼び出され、大使から直接、「たった今、お国と重要な関係がある問題について、ロンドンからの指示を日本の外務省に伝えてきた」と言われた。

英国政府からの指示とは、「台湾は国連メンバーに残るのが一番望ましい」との判断から、「蒋介石政権を承認する日本に台湾を説得してほしい。英国は台湾との関係をゼロにしたくない」という内容だった。

これを受けて辜氏は、親交があった牛場信彦駐米大使に連絡を取り、まず、米国政府の立場を確認。
その上で法眼晋作外務次官に掛け合い、「(国際社会の一員として国連に残れるかは)台湾の将来にとって大きな問題だ」と迫ったという。

法眼氏は当初、英国大使の要請に難色を示していたが、「台湾の存続は日本の国益にもかなう」という辜氏による必死の説得もあって、「省内で意見統一をやってみる」と折れた。

しかし、外務省内の見解は二つに分かれ、判断を迫られた佐藤栄作首相は、「筋を通す」として蒋政権の決定を支持する方針を貫いた。

そして同年10月25日、台湾追放に反対する日米が共同提出した議決案は否決され、蒋政権は自ら国連を脱退。
アルバニアの提出した決議案によって中国は国連に加盟した。

この日を境に、台湾はほとんどの国際機関から排除された。
(肩書きは当時)≫