Gordon H. Chang, ”The Absence of War in the U.S.-China Confront

Gordon H Chang and He Di. “The Absence of War in the U.S.-China Confrontation over Quemoy and Matsu in 1954-1955: Contingency, Luck, Deterrence?” American Historical Review (December 1993), pp.1500-1524.


 第一次台湾海峡危機を米国側一次史料と、中国側の回顧録や関係者インタビューで再構成した連名の論文。アイゼンハワー政権における台湾海峡危機への対処は従来、慎重な対応によって全面対決になることを回避したと肯定的な評価が多かったが、本論文では中国側の認識を同時に考察することによって、米中間の対話の欠如と認識の齟齬が事態を不必要に悪化させ、結局全面対決に至らなかったのはただの幸運に過ぎなかったと論じる。
 1954年9月3日の人民解放軍の金門攻撃は、北京にとっては国共内戦の延長であった。事実中国の南方沿岸では国民政府との小規模な武力衝突が相次いでおり、北京が金門攻撃の指令を出した時、米国との全面対決は想定していなかった。毛沢東は大陳島の攻略を命じたが、金門はあくまで限定的な攻撃に留めることを想定していた。これは朝鮮戦争が終わり米華相互条約の締結が行われるという噂が流れ始めた時期に毛沢東が、国内動員を目的として行われていた政治キャンペーンの一環であった。1954年7月以降、北京は台湾に対して解放を訴える政治プロパガンダのキャンペーンを打っており、金門の限定的な攻撃はこの一環であると同時に、台湾問題の国際的注目を集め、ワシントンの緊張緩和に対する姿勢がどこまで本気なのかを確認するためであった。
 実際、毛沢東は金門攻撃に対してはかなり慎重な姿勢であった。大陳島の攻撃においてもかなり米の動きを慎重に見極めて発動していた。実際、中共中央はこの時期台湾の解放は長く困難な闘争になるとして、直接的な攻撃よりも戦略的な駆け引きを重視していた。長期的な闘争を通じて少しずつ軍事的、政治的、外交的に力を蓄えていくというのが台湾に対する中国の基本的な姿勢であったといえる。1510
 しかし、アイゼンハワー政権は、中国の金門攻撃を事前の警告が不足していたために発生したと理解した。事実、中国軍の作戦発動は、アイゼンハワーの沿岸諸島に対するコミットにおける曖昧な姿勢に原因があった。実際ダレスは明確な姿勢を示して中国側に理解させるべきであると考えていたが、中国側の米国に対する姿勢を見ればこれは事実であったといえる。
 さらに1954年12月に米華相互防衛協定が締結されたが、米国と国府との間で大陳島と沿岸諸島の防衛が協定に含まれなかったことは、再び毛沢東の誤解を生むこととなった。1955年1月に北京は一万人の兵力をもって一江山島に人民解放軍の成立初めてとなる陸海空合同の上陸作戦を敢行する。さらに2月8日、米国からの圧力を受けて蒋介石が大陳島からの撤退を決定したことは中国側の士気を高めた。しかし、これらの一連の動きは毛沢東の予想を超えて米国の緊張を決定的に高めてしまう。米国は中国が明らかに台湾本島まで狙っていると理解した。
 一方国連を通じた停戦の模索がなされるが、中国側はこれを拒否した。こうした背景には中台問題は国内問題であり、国連の介入が「二つの中国」政策を招くことへの危機感があったが、より中国側の情勢認識判断の根底にあったのは、米国側が明確なメッセージを出さないことから、米国は最終的に不介入をとるであろうという認識があったからである。さらに中国側は英米間の意見の相違に着目していた。米国側の直接対話の提案も拒絶する。
 3月に入ると事態は沈静化するが米国は、これを全面攻勢の前触れと理解した。ダレスは3月にアジア諸国を歴訪してさらに中国への脅威感を強めた。中国側の強硬姿勢を前に、核兵器の使用を含めた予防攻撃を行い中国側に米国の意図をわからせるべきであるという姿勢をとるようになる。事態の頂点は3月10日から11日にかけてで、米国政府から国府に対して金門から国府軍を撤退させ、中国沿岸500マイルを海上封鎖し、台湾解放を中国側が行うなら国府核兵器を配備してこれを阻止するという提案を行うに至った。この計画は結局、金門の喪失を恐れる蒋介石の反対によって費えたが、米中間が最も戦争に近づいた瞬間であった(とはいえ実際には米国側の認識とは異なり、毛沢東は金門を本気で攻撃する意図はなかったから即戦争というわけではなかったが)
 1955年4月、バンドン会議が開催されると周恩来は米中と中台の問題を区別し、関係改善をアピールした。これは公式声明に含まれていないことから考えても明らかに周恩来は事前の準備なしに発言したが、周のこれまでの姿勢は中国側の本音から考えても一貫した動きであったといえる。これによって事態は一挙に沈静化し、米中大使級協議が開催されることとなる。
 結論からいえば毛沢東の政治キャンペーンは米華協定の締結を早めた上に、中国の国際的権威を低下させる結果となった。米の対応を明らかに過小評価していたといえる。一方アイゼンハワー政権も、中国の政治キャンペーンを誤解して事態をいたずらに緊張させることとなった。アイゼンハワーは事態の勃発後のハンドリングは巧みであったが、基本的にその曖昧な姿勢が事態を引き起こしたことを考えると抑止に失敗したといえる。危機における核兵器使用のほのめかしは、中国に核開発を決意させてしまう結果になったし、おそらく蒋介石が米側の計画を受け入れていたらより全面的な対決になった可能性もあった。こうした意味で台湾海峡危機の事例は、抑止の成功例というよりも、きわめて状況依存的な要素があり予測不可能な部分が多く含まれていた。危機が解決したのは幸運にほかならなかったのである。