Rosemary Foot. The Practice of Power, Ch3

Rosemary Foot. The Practice of Power: U.S. Relations with China since 1949, Oxford University Press, 1995, Ch.3, "Trading with the Enemy: The USA and the China Trade Embargo," pp.52-81.


米国の対中国禁輸について上記図書の補足として経済企画庁の1971年の年次報告書も参照のこと

The Practice of Power: Us Relations With China Since 1949.


 ローズマリー・フットの研究は日本に対する記述は正確である。シャラーのAltered Nationが、日本の中国貿易に対する対米自主性を必要以上に強調しがちであるが、フットは、日本は対米協調を重視し中国を承認する意志はなかったという点を明記している点は評価できる。もっとも日本関係の記述は、一次史料が見られない時代の安原洋子とラングドンに依拠しているから、ある意味古典的な日本外交史の解釈を引き継いだだけという見方ができなくもない。 
1950年1月、米国とカナダを始めとする自由主義陣営は対共産圏輸出統制委員会(COCOM)を設立した。この輸出統制は東アジアにも波及することとなり新たに成立した共産中国も輸出規制の対象とされ、中国が朝鮮戦争に参戦以降急速に強化される結果となった。1952年までに米国は日本を含めた西欧同盟諸国との間で200以上もの禁輸リスト(チンコム・リスト)を定めたCHINCOMを形成した。このソ連や東欧よりも厳格な対中国輸出統制は「チャイナディファレンシャル」と呼ばれるようになった。しかし対する他の自由主義諸国の反発は強く、1957年5月にイギリスは中国に対する貿易統制を,対ソ貿易に適用される統制基準(ココム・リスト)にまで引き下げると発表し,他のココム参加国もただちにこれに追随して,チンコム・リストは廃止されるに至る。
 一方中国は、自由主義陣営の輸出統制の中で、毛沢東が選択した向ソ一辺倒によって中国のソ連との貿易は戦前に比べて格段に拡大した。1950年から1959年までの取引総量は131億$に達し中国の貿易総量の47.8%を占めた。ソ連からは長期借款を含めて1950年代の終わりにはソ連東欧圏からの輸入が65.3%を占めるようになり、西側諸国の貿易の占める割合は激減した。ただこうした中でも英国を筆頭とする西欧諸国は戦前レベルでの交易の維持を求めており、また中国側もソ連から供給不可能な物資の入手や米国と西欧諸国の関係を離間する政治的狙いもあって西欧諸国との貿易関係を維持し続けた。54〜
 日本は1952年9月に日米間で中国向け輸出統制の了解がなされ、戦前輸出10%、輸入20%を占めた貿易割合は、輸出0.04%、輸入0.7%と貿易シェアは激減した。吉田は国府を承認したが日中貿易は不可欠と考えており、また国内世論は日中貿易への熱意は強く1952年6月には最初の日中民間貿易協定が締結された。58
 朝鮮戦争インドシナの休戦すると英国を中心に貿易規制の緩和を求める声は高まりを見せる。日本でも鳩山一郎政権が登場すると日中貿易に対する政治的自主性を求める動きが強まりつつあった。アイゼンハワー政権は日本の東南アジア市場で歓迎されていない事実と米国の国内産業への悪影響を懸念して、日本を徐々にチンコムからCOCOMレベルへの統制に引き下げていくことを決定した。60
 しかし、東京はより性急に貿易拡大を求めた。高碕達之助がバンドンで周恩来と会見して貿易拡大について合意した。さらに多くの民間団体が北京を訪問した。
 1957年にディファレンシャルをめぐる問題は転換点を迎える。3月バミューダでの英米会談で英国は米国にチャイナディファレンシャルの撤廃を主張した。英国の圧力にダレスは最終的に国連中国代表権問題において米国に協力するなら英国が撤廃しても反発しないと取引をもちかけた。こうしたダレスの提案にもかかわらず1957年5月のパリでの公式会議で米国政府は若干の対中国輸出緩和の提案を行ったが、関係国の反発にあう。フランスは即時チャイナディファレンシャルの25品目を除く撤廃を求めた。他国もこうした動きに同調して事実上チャイナディファレンシャルは無実化した。
 アイゼンハワー政権の対中国禁輸への執着はアイゼンハワー以上にダレスの考えでもあった。ダレスのwedging strategyは中国へのソ連への依存を強めることでいずれ中ソ離間を導くことができるというものであった。また中国への禁輸をゆるめることによって中国の政治承認に向かうことは親台湾派の影響力の強い国内政治的にも避けねばならない問題であった。こうした政治的思惑からアイゼンハワー自身は中国禁輸に積極的ではなったにも関わらず政策は継続されることとなった。64まで
 このように中国に対する禁輸政策は徐々に変化を遂げてきていたが、1958年以降、中国の北京の内政外交政策が転換点を迎える。北京はいわゆる進歩主義国家と反動国家を峻別するようになり、北京の反帝国主義闘争が活発になり始めた。大躍進政策のなかで友敵関係を峻別する中国の対外政策の犠牲になったのは日本であった。
 しかし大躍進の挫折に続いて1960年6月のソ連の技術者引き揚げは中国に大打撃を与えた。1959年までに中国の貿易の三分の二を占めていた東欧貿易と、ソ連による支援は中国経済にとってきわめて重要であった。1967年までに291プラントの契約をソ連と結んでいた中国は1959年までに130が完了していた。しかしまだ二割は完成しておらずに125が設計中途中であった。ソ連の技術者引き上げはこうした作業が全て停止する結果となった。67 さらに大躍進の挫折も要因となった大飢饉によって中国は穀物輸入を余儀なくされることなった。1960年8月日本に貿易三原則を提案して友好貿易が再開された。さらにオーストリア、カナダも中国との貿易が乏しかったが穀物輸入の取り決めが結ばれ輸出が急増する結果となった。
 一方米国政府は、こうした動きが台湾国民政府への孤立につながることを懸念していた。日中関係におけるCIA報告は、日本が中国承認に踏み切る可能性はないが文化的歴史的観点から接近していくのは避けられないという結論を出していた。
 アイゼンハワー政権を引き継いだケネディ政権は、実際に中ソ対立が発生していたことからダレスの提案したwedging strategyという戦略的観点からの対中禁輸はや関心を有していなかった。またボールズのように中国への穀物支援は外貨を使わせるの手段であるという発想を持つ者もいた。しかしケネディは国内圧力を恐れて禁輸政策の転換に踏み切ることはなかった。
 しかし、1964年10月にトムソンが提案したように米国は、自由世界の物資や人、さらには知恵を慎重に用いて中国政府を転覆するように持って行くべきという考えに変わり始めていた。1966年7月にジョンソン大統領もテレビの演説においてトムソンと同じ考えを公言するに至った。だが、中国の文化大革命の混乱は中国貿易への熱意を再び後退させる結果となった。1969年にニクソン政権が成立すると対中輸出統制そのものの撤廃に動き出した。1971年4月には非戦略物資の禁輸の解除を行うことになる。