Chen Jian and Yang Kuisong. ”Chinese Politics and the Collapse

Chen Jian and Yang Kuisong. "Chinese Politics and the Collapse of the Sino-Soviet Alliance." Odd Arne Westad. Brothers in arms: the rise and fall of the Sino-Soviet alliance, 1945-63. Stanford University Press, 1998.


 1950年代の中ソ関係を黄金期から衰退期までを、冷戦後に明らかになった中ソ双方の一次史料(厳密には中国が選択して公開した史料)で明らかにした論文。陳兼は、中ソ関係の分析にあたって、中国側の対外政策を国内政治的要因から読み解く「国内政治起源」仮説を採択しており、ソ連との関係を考察する上で毛沢東イデオロギーの影響が大きかったと論じている。
 1949年の中国建国当初、毛沢東は「向ソ一辺倒」を打ち出した。毛沢東の狙いは、ソ連からの支援によって建国当初の中国の安全保障を確実にする以上に、ソ連の経済モデルを模倣することによって中国の社会を変革することにあった。古い中国を新しい中国に変革することが毛沢東の最大の目的であり、国共内戦に勝利した後に革命の熱気をいかに保つかが毛の大きな課題となっていた。
 しかしながら毛沢東は中国がソ連から「弟」として扱われることには嫌悪感をもっており、朝鮮戦争毛沢東に中国革命と中ソ関係の将来に不安を抱かせる結果となった。金日成の南進計画に当初スターリンは慎重な姿勢を示していた。他方、中国でも中国義勇軍の参戦は当初中国共産党中央で大多数が反対していた。しかし毛沢東は、最終的に米中戦争を招く結果になっても朝鮮と東欧の革命のためには不可欠であると判断して参戦に踏み切った。しかしスターリンは米ソ対決を恐れており、最終的に中国の支援を約束したものの、開戦当初、中国軍はソ連空軍の支援なしの戦いを強いられた。毛沢東スターリンアンビバレントな感情を抱いており、毛沢東が理念を重視することに対して彼がソ連国益を重視することに不満を持っていた。
 朝鮮戦争は建国間もない中国を総動員態勢にさせ、その結果中国共産党の求心力は強まる結果となった。また毛沢東が朝鮮参戦を決断したことが中国の共産主義世界における立場の強化につながったことによって、毛沢東共産党中央内での立場も確固たるものとなった。中国はモスクワが戦時中の軍事援助の支払いを求めてきたことに不快感を抱き、中国経済に大きくのしかかる結果となったが、毛沢東の北京はモスクワに対して道義的優位性を確保することとなり、スターリンの死はこうした中国側の確信を一層深めることとなった。
 スターリンの死後数年間の中ソ関係は良好であった。ソ連は中国の経済再建を支援し、55年4月にはソ連から中国へ核技術の平和利用のための取り決めが締結された。1954年のジュネーブでのインドシナ和平会談は、中ソの緊密な関係を象徴しており54年から55年にかけて中ソ関係は黄金期を迎えた。ソ連は脱スターリン化を緩やかに進めたいと考えており、また中国はソ連の支援を不可欠としていた。中共中央は1953年から1954年に第一次五カ年計画を策定し、ソ連の経済モデルを模倣した経済建設が行われた。しかしながらこうした時期においても、毛沢東は、ソ連「弟」たることを厭い、スターリン亡き後、中国は世界革命の中心にならんとする確信を強めつつあった。高こう(Gao Gang)事件は、一般的に中国の国内政治闘争と見られるが、劉少奇とGao Gangが権力闘争している際に毛沢東スターリンが死ぬまではその去就を明らかにしなかった。Gao gangはソ連と強いつながりをもっていたにも関わらず、北京はモスクワには事態の進展を内密にし、彼の自殺後にソ連に通告したことは、スターリンの死が中ソ関係に微妙な変化をもたらしたことを意味していた。
 1956年2月に転換点は訪れた。フルシチョフによるスターリン批判は事前に中国への何ら相談もなかったことが中共中央を怒らせた。毛沢東スターリンが対中国政策を含めて数々の過ちを犯したとはいえ評価すべきであるという意見を示した。毛沢東ソ連の脱スターリン化に対する対応は中国の50年代中葉の政治情勢が反映されていた。この時期は、毛沢東は「革命の継続」への意欲を一層深めている反面、周恩来や陳雲らによる共産党指導者はより均整のとれた経済発展と社会変革を重視し、冒険主義には反対し始めた時期であった。毛沢東は、スターリンを称揚することで、自身が国際共産主義においてより枢要な地位に立ったことを示し、自身が国際共産主義運動の中での「新しい皇帝」になったと思い始めていた。それゆえ1956年末から中ソ関係は転換点を迎えることとなる。
 こうした中で1956年のハンガリーポーランドの動乱での対応は中ソの姿勢の違いを象徴することとなった。毛沢東ポーランドへの介入はソ連の大国ショビニズムであると批判しこれを抑制しようとしたがハンガリーに対しては反動勢力を粉砕することを主張した。ソ連は結局毛沢東の助言と同じ行動をとりハンガリー侵攻を行った。毛沢東ハンガリーへの主張は彼の階級闘争に基づいたものであった。1957年の百家争鳴から反右派闘争を経て毛沢東は中国の世論の支配を確立するに至っていた。
 反右派闘争に関連して毛沢東周恩来への批判を強め、周恩来が経済再建に深刻な過ちを犯したと主張して、周恩来を解任して柯慶施(Ke Oingshi)をこれに代えようと試みていた。この時期中国は毛沢東の革命の継続に基づいて一層急進的な段階に入っていった
 この時期中ソ関係はまだ良好であったが、1957年11月に毛沢東は、モスクワを訪れた際に、核戦争を恐れるべきではないという発言を行い、平和共存を進めるフルシチョフを恐れさせた。さらに翌1958年に入ると大躍進運動を発動するに至る、毛沢東は1958年1月に会議を開き、周恩来を中心に進められた反冒思想を右派の50m手前にいると激しく批判した。周恩来はこうした批判を受け入れ、3月25日自己批判することになる。この自己批判には周恩来が過去数年行ってきた穏健的な対外政策への批判も含まれていた。他の幹部も結局毛沢東の方針に同調して大躍進運動に邁進することとなった。
 こうしたなかで中ソ対立が表面化したのは、1957年11月のソ連による長距離無線基地の設置提案と1958年7月の中ソ共同の潜水艦艦隊の創設であった。ソ連の提案に対して毛沢東ソ連大国主義を批判し、ソ連の二つの提案は中国を支配する気であると激しく批判した。フルシチョフは1958年7月末に北京を訪れ説得につとめるが、毛沢東は同じ批判を繰り返した。さらに1958年夏の第二次中台海峡危機は中ソ対立を一層深めた。この海峡危機において毛沢東は米国との全面対決を望んだわけではなく、操作可能な国際的緊張を創出することによって国内的支持を調達しようとしていた。しかしソ連はこうした中国の動きを恐れて中国に同調することを渋った。
 1959年は中国の大躍進政策の失敗が明らかになると同時に、チベット問題をめぐって中国とインドの関係も悪化して北京に対する国際的圧力が高まりを見せていた。こうしたなか、6月20日ソ連ジュネーブでの米ソ間の核実験禁止の合意に基づいて中国に核技術の供与は行えないという通告を行った。1957年10月に締結した合意の履行は不可能であり、原子爆弾のプロトタイプや爆弾製造の技術的情報も全て提供できないと語った。
 中国側でも1959年彭徳懐毛沢東批判を行い失脚するという事態が発生していた。毛沢東劉少奇は彭の失脚を彼の訪ソを結びつけて、ソ連の影響を批判した。
 1959年8月には中ソ対立は既に明らかになっていた。インドがダライラマを受け入れるとソ連はインドの支持を明らかにした。1959年9月30日フルシチョフは訪米の後に中国を訪問するが、台湾問題、中印紛争など意見は全くかみ合わなかった。フルシチョフは中国の政策転換を促すために1960年7月には中国からの技術者の引き揚げと物資・軍事援助の大幅削減を決定した。しかし、こうしたソ連の技術者引き上げは毛沢東にとって大躍進の挫折を覆い隠す口実として用いられた。ソ連との闘争を国内政治対立の材料として効果的に用いた毛沢東は、中ソ対立を用いて国内の反対者の力をそいでいった。
 1962年以降の毛沢東の姿勢は基本的に1950年代の論理の繰り返しであった。中ソ対立は中国共産党内の権力闘争と不可分の関係にあった。1962年の王稼祥(Wang Jiaxiang)が中共中央に提出した中国の対外政策をめぐる報告は、中国の対外政策の目標は世界の平和を維持することであると述べた。劉少奇訒小平にも積極的な支持ではないが同意を得たが、毛沢東はうろたえた。王の考えは帝国主義者や修正主義者との調和を図るものであり、帝国主義者との戦いの勢いを削いでしまうと考えたからである。毛沢東帝国主義者との闘争を主張した。中国の急進化は結局中ソ関係を一層悪化させて、ソ連は中国にとって最悪の敵となったのである。