書評について一考察

書評について一考察


 雑誌や日曜日の新聞に掲載される書評は基本的に肯定的な評価をもって常とする。これは基本的には書評の目的が、世間の人々にこの本を多く知ってもらい、買ってもらうことが目的であるからである。もっとも、潜在的に数百万人の読者がいる大手新聞の書評に「つまらない」本を書評するわけにはいかないであろうから、基本的には評価の高い「おもしろい」本を取り上げるのは当然ではある。大手新聞の書評委員は実力も名声もある先生が掲載しているので、わずか800字程度のものが多いにもかかわらず読ませるものが少なくない。
 しかし、学術雑誌・紀要となると若干事情が複雑になってくる。基本的に学術雑誌や紀要に掲載される書評は学術書に限られる。そしてその学術書の内容の専門に近い研究者が執筆を担当することになる。この場合の書評は本来、その学術書を研究者に広く紹介するだけでなく、同時に学術的な意味づけを行って、内在的・外在的な批判を加えることにある。書評が効果的であるのは、実力を持った研究者が、若手の研究を取り上げ、学界の潮流の中でその学術書がいかなる貢献を果たしたのか、そして何が不足している視点を論じるケースであろう。
 だが、常に書評がこうした理想型であるかといえばそのようなことはない。学術雑誌や紀要の性質によって大きく変化する。社会科学系はそれほどでもない印象を受けるが、人文系の学術雑誌になると、比較的自由なものから、大変権威主義的なものもある。権威主義的なもので特にひどいのは、中堅級の研究者が大家の研究を書評しているケースである。書評の最初から最後までが賛美に満ちあふれ、若干批判めいた点は「〜と愚考する」と謙譲語の羅列が続き「○○先生の偉大な業績を若い者に受け継いでいかないといけない」と若手へのお説教めいた表現まで飛びだし、最後に「○○先生の今後のご活躍とご健康を祈念する」と締めくくるのである。書評されている方もここまで賛美されると気持ち悪いのではないか。
 また、往年の学者の研究についての書評では、後の研究に完全に否定されて全く通用しないことが明らかにも関わらず「当時の時代潮流の中では貴重な研究であった」とか婉曲な表現で頑張って弁護している姿が痛々しい。冷戦後、自ら運動に積極的な参加したある高名なマルクス経済学者が死去した際、学会誌か新聞か何かの弔意の一文に「歴史と中に生き歴史と共に歩んだ○○先生」とあったのを記憶している。実際、私はその学者の本を読んだ際にあまりに教条的な内容に数頁で投げ出してしまったのだが、親しい人間でさえ、歴史と共に生き歴史の中に消え去ったと彼を評価する他ないのはちょっと悲しい。
 もっともこうした書評は現在ではもはや少数派であろう。たいていの学術系雑誌の書評は普遍中立を心掛けているし、新進気鋭の研究者の書評は顔見知りであっても書評において容赦はしない。しかし。人間いかに客観中立を心掛けていても、知り合いの書評をする時はその人の顔を思い浮かべてしまうのではないか。また人間には様々な感情が入り乱れてくる。また日本特有の狭い「世間」を意識してしまうこともあるであろう。先に取り上げた残念な書評も、おそらく評者の本意ではなく、その学術コミュニティの狭い「世間」がなせる業なのだと思う。
 とすれば、やはり書評は評者が「世間」を意識する必要のない研究を取り扱う方が、明確な評価批判が書けるのかもしれない。しばしば学術雑誌では、洋書の書評の方が鋭い視点が示されていることがあるが、それは「世間」を意識する必要がなく真剣勝負できるからであろう。なお「世間」からの隔離を担保する手段として、匿名という手段もあろうが、これは肯定しかねる。ネット上のブックレビューを見れば明らかであるが、人間匿名になると書きたいことを書けるが同時にきわめて無責任になり、モラルハザードを引き起こす。場合によって平気で党派的に偏ったことを書き散らす。やはり書評の書き手は書き手なりの自尊心と責任を持つべきであろうと思う。