Jeffrey T. Richardson, Spying on the Bomb, Ch4

Jeffrey T. Richardson, Spying on the Bomb: American Nuclear Intelligence from Nazi Germany to Iran and North Korea, Network: Norton, 2006, Chap.4 Mao's Explosive Thoughts: The People's Republic of China through 1968.

Spying on the Bomb: American Nuclear Intelligence from Nazi Germany to Iran And North Korea


 各国の核開発を米国がどの程度のレベルまでつかんでいたのか、本書は世界各国の核拡散の歴史と米国の情報機関が各国の核開発情報をどこまで把握しており、どのような対応をとろうとしたのかを明らかにしている。
 中国の核開発が本格化したのは1950年代後半であり、第二次台湾海峡危機と米国の国府への核配備が毛沢東の核開発への意欲を強める結果となった。1957年2月に蘭州が核開発の拠点に決定し、1958年にはウランの採掘が開始され同年にはプルトニウム生産の反応炉の建設計画が開始された。59年10月にはロプ・ノール核爆発実験場が完成する。中国の核開発は当初、ソ連の技術供与が想定されており55年から58年の間に六つの技術協定が中ソ間で締結されていた。しかし1959年以降中ソ関係が悪化すると、ソ連は59年6月に技術支援の中止を決定して1960年までに完全に援助は中止された。以後中国の技術者はソ連の支援無しに核開発を継続することとなる。
 一方、米国のケネディ政権は、成立当初中国の核に対する情報をほとんどつかんでいなかった。1955年段階でCIAは中国の核兵器は外部支援なしにはあと10年は製造不可能という報告を出していた。しかし1959年頃より中国の核開発が着実に進行していると認識を改め始める。国務省のGeorge McGheeは、中国の核武装は軍事的よりも政治的心理的問題であると考え、中国の近隣諸国に対して大きな政治的圧力となり、それらの国々とワシントンとの結びつきを弱めることを懸念していた。そしてラスクに対して中国の核武装への対抗措置としてインドに核技術を供与することを提案するが、核拡散を恐れるラスクにこうした提案が入れられることはなかった。
 1962年7月になると米国の情報機関の中国核に対してかなりの確度の情報を入手するようになっていたが、最大の問題である「いつ核武装するか」については確たる情報を得られていなかった。米国は概して中国の核武装の時期を、実際にはより進行していた中国の核開発に比べて遅めに判断していた。
 一方米国政府内ではRobert Johnsonを中心に中国が核武装した際の影響について考察が進められたが、結果的には中国が核を保有した場合、圧倒的な核攻撃能力を持つ米国を前に慎重な行動をとるようになるのではないかという点であった。しかし、これに対してケネディ大統領は中国の核開発に強い懸念を抱いていた。1962年7月にはハリマンがソ連を訪問した際に、中国への共同行動を打診した。またバンディは、同時期統合参謀本部は同時期、中国の核施設への先制攻撃のオプションの検討を指示しており、国府との間でも共同の情報収集を行うことが約束された。中国への攻撃計画は結局のところ、中ソ間の関係回復の契機になってしまうことが懸念され、ケネディに容れられることはなかった。ケネディは非軍事的オプションを望み、ソ連を通じた間接的な圧力に期待したが、ソ連はこうした米国の誘いには終始慎重な姿勢を貫いた。
 1964年に入ると中国の核開発計画は最終段階を迎えた。8月にウランを省いた爆弾一式がロプ・ノールに搬送された。米国側も1964年初頭の段階で中国が一年以内に核実験に踏み切るとの見通しを立てていた。一方1964年春からはインドに配備されたU2からロプ・ノール実験場の偵察が可能となり、衛星偵察と並んで詳細な情報の入手が可能となった。中国が実際に早期に核実験を行い得るかどうかは政権内でも議論があったが、ジョンソン政権は中国の核実験が不可避であることを知ると、先制攻撃を断念した。こうした背景には、大統領選の直後であったこと、ジョンソンが中国との全面対決を回避したかった点、さらに核施設の攻撃が情報不足のために確実を期せなかった点が指摘できる。
 そして、1964年10月16日、中国は20KTの原子爆弾の爆発実験に成功して核保有国となった。ジョンソンは中国の核武装が米のアジア防衛の姿勢に変化はないという点を強調した。