記事:日ソ共同宣言50年 チフビンスキー氏に聞く

東京新聞、2006年10月19日(朝刊)「日ソ共同宣言50年:チフビンスキー氏に聞く」

日ソ共同宣言50年 チフビンスキー氏に聞く
 日本が旧ソ連(現ロシア)との国交を回復した日ソ共同宣言の調印から十九日で五十年。北方領土問題で日ロの溝は深く、平和条約締結の見通しはたっていない。現在も二島か四島かをめぐる領土交渉の焦点となっている共同宣言に至る日ソ交渉について、当事者として交渉にかかわった元ソ連外交官セルゲイ・チフビンスキー氏(88)に聞いた。 (モスクワ・常盤伸)

 歯舞・色丹の二島返還での決着というソ連の方針は、宣言調印に先立つ一九五五年八月五日、ロンドンを舞台にした第一次日ソ交渉で、マリク全権から松本俊一全権に示された。次席代表だったチフビンスキー氏によれば当時の最高指導者フルシチョフ共産党第一書記の指令だった。

 「フルシチョフは一時的にモスクワに戻ったマリクに、『お茶を飲んでばかりで仕事は進まない。交渉が行き詰まっているなら(二島返還を示した)譲歩案を出しなさい』と言った。しかし実際には交渉は行き詰まっていなかった」

 確かにソ連側には北方領土問題以外に、日本側に対しシベリア抑留者の帰還問題、国連加盟への協力、漁業交渉という有利な交渉材料があり、マリクは二島返還なしで交渉妥結が可能と考えていたという。ではフルシチョフはなぜ二島返還というカードを早々と切ったのか。

 当時のソ連は独裁者スターリンが一九五三年に死去、フルシチョフは三年後の党大会でのスターリン批判に向け党内基盤の強化を図っていた。チフビンスキー氏はフルシチョフの決断は、スターリンの腹心だったモロトフ外相との最高権力をめぐる闘争の産物だったと強調する。

 「日本との国交回復はモロトフではなく、自分ができることをフルシチョフは示したかった。自分の力を見せつけるためだったのだ」

 日本側にとっては予期しない譲歩だったが、日本外務省が四島返還要求の方針を明確化し、交渉は暗礁に乗り上げる。結局、自民党の「歯舞・色丹の即時返還、国後・択捉は継続交渉」との党議拘束に基づき、一九五六年十月七日、鳩山一郎首相、河野一郎農相らの全権団が訪ソ。クレムリンでの白熱した交渉の末、共同宣言の調印にこぎつけた。

 当時、チフビンスキー氏は駐日ソ連漁業代表部首席(大使に相当)を務めており、共同宣言調印の翌日の二十日、東京で「(共同宣言にある)平和条約の中には領土問題の最終決定が含まれるべきだと思うか」との日本人記者の質問に「そう思う」と答えた。現在の考えを尋ねると、「平和条約は国境を画定しなくてはいけない。今も全く同じ考えだ」と述べた。

 ただし、チフビンスキー氏はヤルタ協定ポツダム宣言サンフランシスコ平和条約を根拠に、日本が北方領土の主権を放棄しており、国後・択捉は交渉対象でなかったとの見解だ。ソ連側にとり「国境画定」とは、宣言に明記された歯舞・色丹の返還で、ロシアが譲れる最大限の譲歩という認識に半世紀後も一点の揺るぎもないようだ。

■宣言が実質、平和条約

 パノフ前駐日ロシア大使の談話 プーチン大統領は二〇〇一年に、ロシアの首脳として初めて五六年宣言の有効性を確認した。当時、私たち外交官も五六年宣言について説明したが、最終的には大統領自身が読み、領土条項も含め宣言に書いてあることは「ロシアの義務ととらえる」と判断した。

 ロシア国内では二島引き渡しを明記した五六年宣言に反対する勢力も多く、大統領にとっては勇気のいる決断だったが、日本側の評価は低かった。それもあり、領土交渉は停滞してしまった。

 ロシアでは、日ソの議会が批准し国交を正常化させた五六年宣言を実質的な平和条約ともとらえている。ドイツとは平和条約を結んでいないが、良好な関係を保っている。もはや日本との「平和条約」締結にこだわらなくてもいいという考え方があるのも事実だ。

 (聞き手=モスクワ・稲熊均)

北方領土問題の経緯

1855年2月 日露通好条約締結。ウルップ島以北の千島列島はロシア領、択捉、国後、色丹、歯舞の4島は日本領と確認

 75・5 樺太・千島交換条約締結。樺太はロシア領、シュムシュ島以南の千島列島は日本領に

1945・9 ソ連北方領土を占領

 51・9 サンフランシスコ平和条約調印。日本が千島列島を放棄。ソ連は調印を拒否

 56・10 日ソ共同宣言に調印、国交回復。「平和条約締結後に歯舞諸島色丹島を引き渡す」と明記

 60・1 ソ連が日米新安保条約に反発、歯舞・色丹返還は日本からの外国軍隊撤退が条件と宣言

 64・9 元島民の北方墓参始まる

 91・12 ソ連消滅

 92・4 ビザなし交流始まる

 93・10 エリツィン・ロシア大統領が来日。細川護煕首相と北方四島の帰属問題を解決し、平和条約を締結する方針を確認(東京宣言)

 97・11 橋本龍太郎首相が訪ロ。「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と目標設定(クラスノヤルスク合意)

 98・4 エリツィン大統領が来日。橋本首相が「国境線画定方式」を提示(川奈提案)

2001・3 森喜朗首相が訪ロ。プーチン・ロシア大統領と日ソ共同宣言を「交渉の出発点を設定した基本的な法的文書」と確認(イルクーツク声明)

 03・5 小泉純一郎首相が訪ロ。プーチン大統領は領土問題について「ぜひ解決したい。問題を忘れたり、沼地に埋める考えはない」と強調

 05・11 プーチン大統領が来日。領土問題で具体的進展なし