すが秀美『1968年』

すが秀美『1968年』ちくま新書、2006年。

1968年 (ちくま新書)


「革命的な、あまりに革命的な」の続編に位置づけられる本書は、1968年の思想的転換点において「新左翼」の論理と行動がいかなるものであったか、またそれが今日的にいかなる意義を有しているのかを論じている。
 本書が、あまり知られていない事実の発掘につとめている点は興味深い、たとえば、従来の党派性から一線を引き反戦無党派市民運動」としての側面が高く評価される「ベ平連」が、実際には共産党から除名されたか距離を置いた「ソ連派」の強い影響力の下にあり、事実、脱走米兵の幇助に重要な役割を果たした山口健二が、ソ連KGBとつながりを持ち、1960年代末には中国において林彪事件連座して逮捕監禁経験があるという、おおよそ「市民運動」はほど遠い距離であったということは、単純な反米・親共の構図ではなく、中ソ対立という東側の国際的変動が日本の革新運動にいかに影響を及ぼしたかを改めて考えさせられる。
 また華青闘告発が日本の真の「1968年」であったという指摘も興味深い。日本の新左翼の論理が自己陶酔的なナショナリズムの要素を強く持っていることを鋭く指摘した華青闘告発は、民族問題、フェミニズムエコロジーといった従来顧みられなかった「小さな物語」の勃興を促し、世界革命という「壮大な物語」の位置づけによらない運動に発展していったと論じる。
 1960年代末の中ソ対立の激化、ソ連チェコ介入による知識人の失望によって従来の革新勢力は変質を余儀なくされた。こうした革新勢力が今日につながる市民運動にいかに変容していったのかを内在的批判を交えて論じる本書は興味深い。
 しかし、同時に1968年の位置づけの過大評価への懸念と実証性への疑問が残らないわけではない。1970年の華青闘が「民族問題」を革新勢力に強く意識づけたことは首肯できるとはいえ、断絶を強調するがゆえに、「民族運動」の前史、すなわち戦前のアジア主義、または戦後から1950年代にかけてのアジア・アフリカ諸国の民族独立運動の勃興が日本の知識層に与えたインパクトが、いかに位置づけられるのかの言及が欲しかった。
 また、日本における「偽史」の勃興を1968年を起点とするポスト・モダンの潮流のなかに位置づけるのはいくらなんでも無理がある気がする。日本においてこのような「偽史」が横行し始めたのは「1968年」前後が最初ではなく、その歴史は戦前で連綿とさかのぼる。こうした議論を受け入れるなら、たとえば1990年代の日本の架空戦記ブームも、冷戦後の日本におけるネオ・ナショナリズムの勃興と位置づけることもできるかもしれない。しかし、こうした議論は実はほとんど根拠に乏しく、何らかの実証的検証を経たものではない。
 一次史料に基づく実証史学とは異なり、反証可能性に乏しい思想史的分析は、小熊英二『「民主」と「愛国」』のような旧来の政治外交史では描き得ない壮大な物語の構築が可能となる。だが、一歩間違えば、こうしたアプローチは、ポストモダニズムの名を借りたなんでもありの玉手箱と化する可能性は否定できない。本書はこうした旧来の批判から免れ得ない側面はあろう。
 とはいえ、著者が指摘するように「1968年」は、現代社会を考察する上での思想的豊潤さを有していることは事実である。「1968年」という思想的転換点を挟んで日本の知識層、大衆社会はいかに変容したのか、何を継承し何が断絶したのかについて本書に続く後発の研究成果が待たれる。