Ken’ichi Goto, Tensions of Empire, Ohio UP, 2003

Ken'ichi Goto, Tensions of Empire: Japan and Southeast Asia in the Colonial and Postcolonial World, Ohio UP, 2003, Chps1, "Changing Japanese Perceptions of South East Asia," pp.3-23
Tensions of Empire: Japan and Southeast Asia in the Colonial and Postcolonial World (RESEARCH IN INTERNATIONAL STUDIES SOUTHEAST ASIA SERIES)


 日本の東南アジア関与を論じた著作。第一章では概論的に、明治維新から太平洋戦争終結までの日本の東南アジア認識の変遷について追っている。
 明治維新以前から日本人の東南アジア観は西川如見が指摘するように、中国文化の影響下にあった日本、韓国、台湾、トンキン、コーチシナといったforeign countriesと、それ以外の東南アジア地域をbarbariansに区別していた。明治維新以降、日本は、中国を中心とする華夷秩序から脱却して西欧国際システムの一員となっていく。日清戦争の勝利による台湾割譲、さらに日英同盟の締結という日本が西欧列強の一員としての立場を追求していく中で、同時期に東南アジアが西欧植民地主義に飲み込まれていったことは日本の東南アジアを他のアジア諸国よりも下位に位置づける考えは一層促進されることとなった。実際、日本は蘭領東インドに多くの日本人が渡っていたが、日本はオランダに対して日本人に対して、他の西欧人と同じ法的地位を与えることを要求する一方で、シャム王国に対しては、かつて日本が西欧列強と締結したのと同じ不平等条約を締結を強要した。
 日露戦争での日本の勝利は、米国を代表とする欧米諸国に日本への警戒を植え付けると同時に、東南アジア諸国の多くのナショナリストに希望を与えることとなった。彼らは独立運動の支援を日本に期待していたが、その多くは期待はずれであり挫折に終わった。日本人の中にはアジア主義の考えを持つものはいたが、総体的にいえば日本は西欧化の道をひた走っており、彼らを支援する方向には向かなかったからである。著者はこうした矛盾を踏まえて、日露戦争がアジア民族の覚醒させたという言説には注意を払う必要があろうし、こうした点を軽視すると、太平洋戦争を「アジア解放」の戦争であったと安易に解釈する誤りを生むと述べる。
 第一次世界大戦後、ベルサイユ条約による日本の人種差別撤廃決議の否決とワシントン海軍軍縮条約は日本を大きく失望させた。Peter Duusが述べるように、これらの決定は日本人の根底にアジア共栄と西欧支配の終焉を目指す思想を芽吹かせた。他方、第一次大戦後、日本は東南アジアへの進出を拡大していく。日本は委任統治領としてドイツの南洋統治領を引き継いだ。これらは日本海軍にとって重要な戦略拠点であった。日本は委任統治領の島々において原住民を教導する政策を展開した。
 1930年代になると、日本の対東南アジア輸出量は急増した。オランダは日本の経済進出の拡大がやがて軍事進出に結びつくことを強く警戒していた。一方日本国内においても「革新派」が登場して、西欧植民地主義の打破による「東亜新秩序」の構築を主張し始める。皮肉なことであるが、かつて日本がアジア諸国を主導する根拠としていたのは、アジアで唯一「西欧化」を成し遂げた国という点であった。しかし、それが否定されても日本人はこうした矛盾に気づくことなくアジアの盟主を意識した政策を推し進めようとしたのである。元来日本陸軍は対ソ戦略を視野に入れた北進政策を主張し、海軍は資源問題から南進政策を主張していた。しかし、1936年8月の五相協議において、ついに「南進」は「北進」と等価に位置づけられ。南進政策が徐々に現実味を帯びてきた。また国内でも、中谷武世の言説に見られるように民間セクターから南進論を唱える主張が登場することとなる。元来海軍の主張であった南進論は、やがて援蒋ラインの途絶による日中戦争からの脱却を目指す日本陸軍にも支持される結果となった。
 1941年11月20日んお日本軍の南進計画は、東南アジアを制圧して速やかに天然資源を確保することにあった。しかしこうした目的は表向き、西欧植民地支配の脱却とアジアの開放を達成する聖戦という名目の背後に隠れる形となった。東南アジア諸国の独立主義者の反応はそれぞれ異なるものであったが、日本人もまた東南アジアの独立主義者の日本人に対して向けられる笑顔の背後にある複雑な感情を理解していた。
 日本は、東南アジアを汲めども尽きぬ資源を有する地であると同時に、西欧植民地支配に政治的に苦しむ地域と見ていた。日本はこうした認識を持ちつつ、南進をアジアへの回帰というスローガンのもとに正当化しようとしたのである。