Caroline Pruden, Conditional Partners, LSUP, 1998

Caroline Pruden, Conditional Partners: Eisenhower, the United Nations, and the Search for a Permanent Peace, Louisiana State UP, 1998, Ch.6 "Parting the Bamboo Curtain: The United States and Communist China." pp.121-143.


 本書はアイゼンハワー政権期の米国の国連政策をテーマとしているが、第6章では、とりわけ対中国政策が国連政策の文脈においていかに扱われたを論じている。
 アイゼンハワー政権の中国政策を簡潔に述べるならば、それはトルーマン政権以上に強力な中国封じ込めを志向したものであった。朝鮮戦争において国連軍として米軍が参戦した経緯から、中国は、国連から非平和友好国として阻害されおり、米国政府は、中国問題自体を棚上げ(モラトリアム)する国連決議を推進していた。中国の国連阻害は、共産政権の封じ込めという文脈にとどまらず、同盟国である国府の国際的地位の護持、さらには国内政治的な文脈においてもアイゼンハワー政権にとって重要な課題であり続けた。
 ただし、このことはアイゼンハワー政権首脳部が頑迷な中国阻害政策に凝り固まっていたことを意味しない。たとえば、ダレス国務長官は、アイゼンハワー政権の樹立直後の1953年初頭には国際法の専門家であるJohn Dickeyに中国を安全保障理事国から外し、中共国府双方に総会議席を与える国連での「二つの中国」政策を実現する国連憲章改正の可能性を検討させ、1954年夏には、こうした考えをイーデン英外相やネール印首相に伝えていた。しかし、ダレスやアイゼンハワーの中国政策を拘束したのは、米国内において国府支持を打ち出す共和党上院議員を中心とするチャイナ・ロビーの存在であった123。
 それゆえ、1953年3月にスターリンが死去し朝鮮戦争が休戦にむかうと中国に国連議席を付与する国際的な期待が高まることとなったが、アイゼンハワーはこれを認めず、モラトリアムの継続を渋る英国政府を押し切り1954年末までの延長を可決した124。
 1954年に第一次台湾海峡危機が勃発すると米中間の緊張は再び高まることとなった。アイゼンハワー政権は台湾海峡の現状維持による停戦を模索し、台湾の安全保障を確保すると同時に国府の大陸反抗を封じる目的で1954年12月に米華相互防衛条約を締結する。そして、米国政府は、ジュネーブでの大使級協議を通じて中国との対決を回避しつつ、国連を中国非難の場所として効果的に用いつつ引き続きの中国の国連阻害を図ったのである。
 1956年は、アイゼンハワー再選の時期にあたり、米国は再度、中国問題をめぐる議論の先延ばしを試みた。この年の棚上げ案はハンガリー動乱と中東におけるスエズ危機の勃発という国際緊張の高まりによって中国問題の棚上げ案は比較的円滑に成功した。138 
 しかし、翌57年以降、中国代表権問題をめぐる米国の姿勢に対する国際的批判は高まりを見せた。国務省の内部においても米国は台湾の安全保障と引き替えにすることによって中国を国連に加盟すべきであるという意見が表れはじめ、PPCのBowieのように、米国政府内において国連における「二つの中国」政策をとるべきとの主張が現れはじめるが政権内で本格的に検討がなされることはなかった。139 
 1958年の第二次台湾海峡危機が終焉すると、国連中国代表権問題においてアイゼンハワー政権の立場は一層浸食されるようになる。インドが米国提案に反対を表明し、欧州諸国も米国との友好関係のためだけに投票するようになりつつあった。1959年は米国はかなり早期の段階から中国代表権問題工作運動を開始して棚上げ案の継続を図ろうとしたが、結果として、この年は中国のチベット侵攻の影響に救われることによって棚上げ案の継続に成功した。しかし翌1960年には中印紛争が発生し、インドは過去三年間提出し続けてきた提案を出さなかったにもかかわらずきわどい勝利となり(アフリカ新興国の大量加盟が要因)、もはや棚上げ案は限界に達しつつあったのである141。